三哲神社由来とは? わかりやすく解説

三哲神社由来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:49 UTC 版)

三哲神社」の記事における「三哲神社由来」の解説

三哲神社祭神千葉秀胤幼名小太郎と言い岩手県二戸郡福岡(現二戸市)の生まれであった先祖藤原名乗り、元は南部領下戸前に居住し下戸前を姓にしていた。父弥兵衛時代九戸の乱発生。父弥兵衛はこれに荷担し、戦に敗れて没落し福岡かくれていた。この時に秀胤が生まれた寛文元年1624年)には下戸前常政とも呼んでいた。 幼少から物覚えがよく、多く知っていて考えの鋭い子であった若い頃江戸出て学問励み文学武芸には特に優れていた。また医術丹波の派に修行をして、極めてよく当時の人々救った。医号を三哲、学号を玄秀といい、当時の人々から三哲と言われていた。三哲の体格強大剛勇反面同情心厚く貧困者の救済考え巡らしていた。強者横暴をくじき弱者同情する義侠心があった。寛文5年42歳時に鹿角大湯移り千葉家寓居して千葉氏名乗った翌年十二所来て宍戸左衛門菊池右衛門両家居住し武芸教え医業開いていた。毎日一本歯下駄をはき、大滝温泉通い湯治した姿は、奇人変人のようにも思う人もいたが、医書著していて、町民からは非凡人として尊敬されていた。 十二所に来た秋田藩家老梅津右衛門病気になった際には、三哲は直ち治療をした。その時弓矢優れていると言われていたので、それを見よう十二所城主塩谷氏は三哲に50間(約90m)離れた尺的(33cm)を射させた。三哲は見事に命中させた。梅津右衛門感激して200石で三哲をかかえよ勧めたが、三哲は従わなかった。また、武芸達人聞いて各方面から武者仕合申し込んだが三哲にはとうてい敵わなかった。 三哲は大湯から十二所移った後、宍戸家居宅中に常に木工好んでいた。たまたま、武田氏が三哲の門人となって木工伝えていたときに、木工老人になれば続けられないといい、医術代わりに伝えた。後に武田氏武田三益が祖となり、代々医師となって三の字を号として後の十二所城主茂木氏のかかえ医師となったその子孫昭和時代まで十二所医師として活動していた。三哲は薬代富豪から取り、貧人の病人からは一銭も取らなかった。そのため世間では大変ほめる人もあったが、悪口不平を言う人も多かった武士からは薬代収納米で取る契約になっていたが、三哲は大滝にいて、十二所からの収納米を馬から下ろし領収書持たせて地主渡したことがしばしばあった。 十二所城主塩谷民部重綱が重病のとき三哲に治療頼んだその時三哲は自分法を用いれば必ず全治するが、その謝礼は米数石を出すようにと言った塩谷氏快諾したので、さっそく治療とりかかり数日で彼は全快した。しかし約束を果たすように再三申し入れたが、塩谷氏は言を左右にして一向に応じなかった。やむを得ず、三哲は歳末大滝から十二所の上納米差し押さえ貧民与えたまた、佐藤右衛門当時極めて富裕だったが、欲深くけちであった佐藤氏の妻が難産苦しんだ時、三哲はこれを治し女子安産させた。三哲は佐藤氏からの謝礼甚だ少なかったので非常に怒った2・3年後また佐藤氏の妻の難産起こったとき、三哲は請われても前回のことを言って応じなかった。そこで佐藤氏は人を通じて半金出し快気後で半金を出す約束をしたので、三哲はこれに応じた結果佐藤氏の妻は安産母子共に救われた。ところがその後、三哲が残金佐藤氏請求した支払われなかったので、再三要求する佐藤氏はやっと知行年貢収納の際に、大滝支払うことの約束をした。ところが佐藤氏は時がたっても渡さず一向に応じようとしなかった。三哲は大い怒って佐藤右衛門への運送米を大滝取り押さえて領収書あたえた。 三哲は学問があり、武芸にも優れ人々威張り極めて横暴誰も取り締まれない強い者であるという評判だった。そこで城主小川郷右衛門斎藤福助奈良右衛門三人捕手命じた三人は三哲の動向をたえず探っていた。6月15日十二所のある家から薬代お礼として酒とが三哲に送られた。三哲は大い酔って大滝温泉入った。機を見て三人は三哲を襲ったが、三哲は湯に隠れて見えなかった。角右衛門が棒で湯をかき回し、そのありかを知る。三哲が浮かび上がるのを戸の陰に隠れていた2人のうち福助(三哲から棒術習っていた)が走り寄って素早く腕を打った。三哲は酔った上に裸で思うにまかせず福助棒術で体は損傷し倒れてしまった。彼らは三哲を縛り上げ担架のようなものに乗せて十二所まで運んだ途中で三哲は福助求めて「以下をいつも懇意にしている人に伝えてくれ。えぞが三哲山)の前山葬ってくれ。罪がない者が殺されるのは無道だ。もしも、3年の内に私を祭らなかったら十二所を焼く。自分日頃の恩には報いるし、仇にも報いる。もし自分言葉結果出たら、霊があるものとして祀ってほしい。」と言い後は何も言わなかった。宮廷出して聞いても何も答えない。翌16日にも何も答え無かったので、三哲のはかりごと考え、縄をほどかなかった。三哲は翌17日にはそのまま絶えていた。 人々はあわれと思ったが、官を恐れてそのままになっていたが、上新町住民が官に願い夜に遺言のえぞが三哲山)に葬った。そこが三哲の墓地になり、その後年数経って三哲神社として祀ることになったその後1764年延宝4年)に十二所大火があり、また時々火災発生した。三哲に懇意にしていた人は除かれての大火住民は不安であった十二所支配者であった塩谷氏は他の不正事件明らかになり角館転住させられた。佐藤右衛門不正事件重罪になった捕り手をした者も大熱発し「三哲」の言葉発し病んだり、子孫若死にするなどがあって、人々心から恐れて神として祀ったので、禍もなくなったという。 南部藩秋田藩国境論争起きたときには宍戸氏は三哲の考え取り入れ山役の功もあって、三十石加禄果たした武田氏は三哲の妙薬によって病を免れ子孫繁栄し菊池氏大病三度免れ、幸いを得たものが数知れなかったという。十二所城主塩谷氏上級の官には「三哲は南部産で、文武医の三道をかね、行動から見て秋田に来たのは密偵であるとみた。調べのために捕らえようとして打った結果死亡したのである」と報告した転封はその祟りではないかとされた。

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