三哲神社由来
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三哲神社の祭神の千葉秀胤は幼名を小太郎と言い、岩手県二戸郡福岡(現二戸市)の生まれであった。先祖は藤原を名乗り、元は南部領の下戸前に居住し、下戸前を姓にしていた。父弥兵衛の時代に九戸の乱が発生。父弥兵衛はこれに荷担し、戦に敗れて没落し、福岡にかくれていた。この時に秀胤が生まれた。寛文元年(1624年)には下戸前常政とも呼んでいた。 幼少から物覚えがよく、多くを知っていて考えの鋭い子であった。若い頃、江戸に出て学問に励み、文学と武芸には特に優れていた。また医術は丹波の派に修行をして、極めてよく当時の人々を救った。医号を三哲、学号を玄秀といい、当時の人々から三哲と言われていた。三哲の体格は強大剛勇の反面、同情心が厚く貧困者の救済に考えを巡らしていた。強者の横暴をくじき弱者に同情する義侠心があった。寛文5年の42歳の時に、鹿角の大湯に移り、千葉家に寓居して千葉氏を名乗った。翌年に十二所に来て、宍戸源左衛門や菊池茂右衛門の両家に居住し、武芸を教え、医業を開いていた。毎日一本歯の下駄をはき、大滝温泉に通い湯治した姿は、奇人変人のようにも思う人もいたが、医書を著していて、町民からは非凡人として尊敬されていた。 十二所に来た秋田藩家老の梅津半右衛門が病気になった際には、三哲は直ちに治療をした。その時、弓矢が優れていると言われていたので、それを見ようと十二所城主の塩谷氏は三哲に50間(約90m)離れた尺的(33cm)を射させた。三哲は見事に命中させた。梅津半右衛門は感激して、200石で三哲をかかえよと勧めたが、三哲は従わなかった。また、武芸の達人と聞いて各方面から武者が仕合を申し込んだが三哲にはとうてい敵わなかった。 三哲は大湯から十二所に移った後、宍戸家に居宅中に常に木工を好んでいた。たまたま、武田氏が三哲の門人となって木工を伝えていたときに、木工は老人になれば続けられないといい、医術を代わりに伝えた。後に武田氏は武田三益が祖となり、代々医師となって三の字を号として後の十二所城主茂木氏のかかえ医師となった。その子孫は昭和の時代まで十二所の医師として活動していた。三哲は薬代は富豪から取り、貧人の病人からは一銭も取らなかった。そのため世間では大変ほめる人もあったが、悪口不平を言う人も多かった。武士からは薬代は収納米で取る契約になっていたが、三哲は大滝にいて、十二所からの収納米を馬から下ろし領収書を持たせて地主に渡したことがしばしばあった。 十二所城主塩谷民部重綱が重病のとき三哲に治療を頼んだ。その時三哲は自分の薬法を用いれば必ず全治するが、その謝礼は米数石を出すようにと言った。塩谷氏は快諾したので、さっそく治療にとりかかり数日で彼は全快した。しかし約束を果たすように再三申し入れたが、塩谷氏は言を左右にして一向に応じなかった。やむを得ず、三哲は歳末に大滝から十二所への上納米を差し押さえて貧民に与えた。また、佐藤儀右衛門は当時極めて富裕だったが、欲深くけちであった。佐藤氏の妻が難産で苦しんだ時、三哲はこれを治し女子を安産させた。三哲は佐藤氏からの謝礼が甚だ少なかったので非常に怒った。2・3年後また佐藤氏の妻の難産が起こったとき、三哲は請われても前回のことを言って応じなかった。そこで佐藤氏は人を通じて半金を出し、快気の後で半金を出す約束をしたので、三哲はこれに応じた。結果、佐藤氏の妻は安産で母子共に救われた。ところがその後、三哲が残金を佐藤氏に請求したが支払われなかったので、再三要求すると佐藤氏はやっと知行(年貢)収納の際に、大滝で支払うことの約束をした。ところが佐藤氏は時がたっても渡さず、一向に応じようとしなかった。三哲は大いに怒って、佐藤儀右衛門への運送米を大滝で取り押さえて領収書をあたえた。 三哲は学問があり、武芸にも優れ、人々に威張り、極めて横暴で誰も取り締まれない強い者であるという評判だった。そこで城主は小川郷右衛門、斎藤福助、奈良角右衛門の三人を捕手に命じた。三人は三哲の動向をたえず探っていた。6月15日十二所のある家から薬代のお礼として酒と鱒が三哲に送られた。三哲は大いに酔って、大滝温泉に入った。機を見て、三人は三哲を襲ったが、三哲は湯に隠れて見えなかった。角右衛門が棒で湯をかき回し、そのありかを知る。三哲が浮かび上がるのを戸の陰に隠れていた2人のうち福助(三哲から棒術を習っていた)が走り寄って素早く腕を打った。三哲は酔った上に裸で思うにまかせず、福助の棒術で体は損傷し倒れてしまった。彼らは三哲を縛り上げ、担架のようなものに乗せて十二所まで運んだ。途中で三哲は福助に水を求めて「以下をいつも懇意にしている人に伝えてくれ。えぞが森(三哲山)の前山に葬ってくれ。罪がない者が殺されるのは無道だ。もしも、3年の内に私を祭らなかったら、十二所を焼く。自分は日頃の恩には報いるし、仇にも報いる。もし自分の言葉に結果が出たら、霊があるものとして祀ってほしい。」と言い後は何も言わなかった。宮廷に出して聞いても何も答えない。翌16日にも何も答えが無かったので、三哲のはかりごとと考え、縄をほどかなかった。三哲は翌17日にはそのまま息絶えていた。 人々はあわれと思ったが、官を恐れてそのままになっていたが、上新町の住民が官に願い夜に遺言のえぞが森(三哲山)に葬った。そこが三哲の墓地になり、その後年数が経って三哲神社として祀ることになった。その後、1764年(延宝4年)に十二所に大火があり、また時々火災も発生した。三哲に懇意にしていた人は除かれての大火に住民は不安であった。十二所の支配者であった塩谷氏は他の不正事件が明らかになり角館に転住させられた。佐藤儀右衛門も不正事件で重罪になった。捕り手をした者も大熱を発し「三哲」の言葉を発し病んだり、子孫が若死にするなどがあって、人々は心から恐れて神として祀ったので、禍もなくなったという。 南部藩と秋田藩の国境論争が起きたときには宍戸氏は三哲の考えを取り入れ山役の功もあって、三十石の加禄を果たした。武田氏は三哲の妙薬によって病を免れ子孫も繁栄し、菊池氏も大病を三度免れ、幸いを得たものが数知れなかったという。十二所城主塩谷氏は上級の官には「三哲は南部産で、文武医の三道をかね、行動から見て秋田に来たのは密偵であるとみた。調べのために捕らえようとして打った結果死亡したものである」と報告した。転封はその祟りではないかとされた。
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