三善流太田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 19:35 UTC 版)
鎌倉幕府問注所執事・三善康信の子康連が、鎌倉時代中期に備後国世羅郡太田(現在の広島県世羅郡世羅町)を与えられ、名字を太田とした。同族の町野康持の失脚後に問注所執事に任ぜられて、子孫は代々、問注所執事を世襲し、康連の孫・太田時連は『吾妻鏡』の主要な編纂者の1人と目されている。 時連は建武政権でも重用されたが後に足利尊氏に従い活躍して室町幕府の初代問注所執事となり、時連の同族の太田顕連(康連の玄孫・時連の従兄弟の孫)も建武式目の制定に関与した。 ところが、時連の孫・太田顕行は観応の擾乱の際に足利直義を支持した影響で足利義詮が将軍になると問注所執事の地位を失い、鎌倉に移って鎌倉府に出仕した。しかし、顕行の子・太田長康の時代になって再び京都に召し出された(長康の一族の中にはそのまま鎌倉府・後北条氏に仕えた者もいたが、源姓太田氏に圧倒されていく)。長康は室町幕府の評定衆・神宮方頭人に起用されているが、長康の後を継いだ嫡男の太田康雄は不祥事を重ねて将軍・足利義教に処分されるとそのまま鎌倉の足利持氏を頼って出奔し、室町幕府と鎌倉府の対立の一因となった。嘉吉の変で義教が殺害された後、義教に処分された者の多くが赦されたが、康雄とその子孫は以前の不祥事の影響で赦免が得られず、義教が任じた同族の町野氏が引き続き評定衆を務めることになり、太田氏の嫡流は没落したとされる。 顕行の弟の太田時直は周防国玖珂郡椙杜郷を与えられて移住してその一族は、椙杜氏を名乗り、大内氏、毛利氏に仕え、後に長府藩筆頭家老となった。
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