三千世界の大道とは? わかりやすく解説

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三千世界の大道(三界を貫く誠の道)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 07:29 UTC 版)

日月神示」の記事における「三千世界の大道(三界を貫く誠の道)」の解説

日月神示内容極めて広範囲にわたり、神霊上記の「アメの巻」第十三帖で 「外で判らん根本のキのこと知らす此の方神示ぢゃ。三千世界のこと一切の事説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち着いて聞き落としのない様になされよ。」 と語っているように、そのそれぞれに多く記述見られるが最も大きな特徴神霊自身が「下つ巻」第一帖や「春の巻」第一帖、「黄金の巻」第二帖で 「この道宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。」 「此処光の道伝え、行ふ所、教えでないと申してあろう。教へ教へに過ぎん。道でなくては今度はならんのぢゃ。」 「今迄日本の宗教日本だけの宗教この度世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。」 また、アメの巻」第一帖、「〇つりの巻」第一帖、同巻第六帖の 「此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。」 「今迄の教ではこの道判らんぞ。」 「三界を貫く道ぞ誠なり誠の道は一つなりけり神界の誠かくれし(隠れし)今迄の道は誠の道でないぞや、鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ道ぞ誠ぞ。」 と述べているように、この神示宗教でもなく教えでもなく「三千世界の大道」で「三界を貫く誠の道」だと語っていることであろう。そのために既成宗教信仰あり方教えとは大きく異なるものが多く、それらを否定している記述随所見られる例え既成宗教では有名な教えのひとつとされる「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」と言う教えについてでは日月神示書記させたこの神霊次のように述べられている。 「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるやうなものを心の中もっているから打たれるのぞ。マコト居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけくだされよ。笑って来る赤子無邪気打たれであろうが、これが無抵抗ぞ。世界一天下太平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ」(極め之巻第十五帖) 「そなたは無抵抗主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、それは真の無抵抗ではないぞ。よく聞きなされ、打たれるやうなものをそなたがもってゐるからこそ打たれる結果となるのぢゃ。まことに磨けたら、まことに相手愛してゐたならば、打たれるような雰囲気生れないのであるぞ。頬をうたれて下さるなよ。生れ赤児見よ知らしてあろうが。」(月光巻第五十三帖) (※これらの帖に関しては、幼児虐待幼児殺しをしてしまう親が度々ニュースになるなど、説得力のない文章だと考える人意見もある。) 同様に既成宗教では神の「しるし」や「証し」として重要視神聖視されている奇跡であるが、これについても完全に否定いくつかの帖で言及され奇跡やこれらを求め信じる人に大きな警鐘鳴らしている。「二日んの巻」第十三帖では「地獄下級霊の現われには、多く奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動き逆行する動き現われであること知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人向上し得ない。」や「黄金の巻」第二十二帖でも「奇跡では改心出来のであるぞ」また、龍音の巻」第十八帖では「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか。」と語られている。 また、他の多く宗教修行一環や、神への自己犠牲のしるしとして断食必要性やその意義説いているが日月神示では断食すること自体厳しく戒めているのも注目される。「日月の巻」第三帖では「滝に打たれ断食するな行幽界の行ぞ。神の国のお土踏み神国の光いきして神国から生まれ食べ物頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ。」と述べられ、滝に打たれたり、断食するような行は低い世界の行に過ぎず全く必要がないのだとされる。さらに「正し食生活について」では「食物食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふえて弥栄えるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。何も彼も同様ぞ。人民喜びの子申してあらう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ。」(春の巻第五帖)と語られている。 しかし、一方で多食肉食についてはこれを戒めており、次のような帖もある。「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミ食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民こんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われメクラツンボと申すものぞ。」(冬の巻捕帖)「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう、臣民食物五穀野菜の類であるぞ。」(碧玉の巻第八帖)。なお肉食についてはそれを戒めつつも、次のようにも書記させている「の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じやうぶになるのぞ」(天つ巻第五帖)。 「人間生き方に関して次の記述代表的なものであろう。 「臣民にわかる様にいふなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思へばよいのであるぞ、それでその身体どんなにしたらよいかと云ふこと分かるであらうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであらうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いことしてお扱ひすることぞ」(富士の巻第十四帖)。「目覚めた其の日生命お預りした事を神に感謝し其の生命を神の御心のままに弥栄仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語られている。 さらに夫婦ありかたについては次のように述べられている。 「愛は養はねばならん。夫婦いのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。」(春の巻第二十六帖)。「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報女に来るぞ。」(黄金の巻第七十二帖)、また「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二富士晴れるぞ。」(黄金の巻第九十九帖)、さらには夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。」(月光の巻第九帖)とあり、お互いに信頼しきった夫婦関係が大切で真の信仰の礎であると語られている。

※この「三千世界の大道(三界を貫く誠の道)」の解説は、「日月神示」の解説の一部です。
「三千世界の大道(三界を貫く誠の道)」を含む「日月神示」の記事については、「日月神示」の概要を参照ください。

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