レバノン戦争と多国籍軍の進出
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「レバノン内戦」の記事における「レバノン戦争と多国籍軍の進出」の解説
1982年6月6日、PLOによる駐英大使へのテロの報復と、PLO撤退のためとして、隣国のイスラエルが越境して侵攻する(レバノン戦争(英語版)、ガリラヤの平和作戦)。イスラエル軍はLFやアマルと組み、レバノンに駐留するシリア軍を壊滅させた。この際、国産戦車メルカバを初めて実戦投入し、ソ連製の最新鋭戦車であったシリア軍のT-72を多数撃破する戦果を挙げている。6月13日に西ベイルートへ突入、国際的非難を受けながらもベイルートの包囲(英語版)を続けるが、西ベイルートが占領されたことで徹底抗戦していたPLOも8月21日に停戦に応じ、8月30日にヤーセル・アラファート率いるPLO指導部および主力部隊はチュニジアへ追放された。ここでアメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどはPLO部隊撤退後のパレスチナ難民に対する安全保障という名目で、レバノンに多国籍軍(英語版)を派遣した。 イスラエルとしてはレバノンを親イスラエル国家として転換させ、シリアひいてはアラブの影響力をレバノンから排除したかった(これにはイスラエルが、アメリカのジミー・カーター大統領の仲介で成立したエジプトとの単独和平を意識していたとする指摘もある)ため、ファランヘ党創設者ピエール・ジェマイエル(英語版)の息子で、親イスラエル・反シリアの急先鋒であり、LFの若いカリスマ的指導者であったバシール・ジェマイエル(英語版)を大統領に就任させるつもりであった。バシールは1982年8月の大統領選挙において、ムスリム左派のボイコットを受けながらも当選したが、翌9月にファランへ党本部で演説中、爆弾テロによって就任前に暗殺されてしまった。後にテロの実行犯として逮捕されたのはシリア社会民族党の党員であったが、親イスラエル政権の樹立に失敗したイスラエルは、この事件をPLO残党の犯行とみなした。当時、LFの情報担当者といわれていたエリー・ホベイカ(英語版)率いる部隊は、イスラエル軍の監視の下、パレスチナ難民キャンプを襲撃し、多数の難民を虐殺した(サブラー・シャティーラ事件)。この事件によって、虐殺を黙認したイスラエルには特に国際的非難が高まり(イスラエルはキャンプ内においてパレスチナ人の捜査をLFに指示したと主張)、当時のアリエル・シャロン国防相が辞任する事となるが、ホベイカは後述するように親シリアともいわれており、真相は必ずしも明白ではない。 バシール亡き後、穏健派と目された兄アミーン・ジェマイエル(英語版)が大統領に就任した。イスラエルは彼とエジプトに続く中東和平条約「イスラエル・レバノン平和条約」を結ぶが、アミーンに弟ほどの人気や政治力は無く、また世論の激しい反発を招いた事から、最終的に1984年2月に破棄された。パレスチナ難民の安全保障を目的としたはずのアメリカ・イギリス・フランスなどの多国籍軍は、内戦終結を望まない各派民兵組織や政治指導者に翻弄される事になる。すでに形骸化していた国軍は、アメリカ海兵隊の訓練と支援により再生され、西ベイルートを中心に若者が召集された。だが、アミーンはやがてイスラム教やシリアに対して強硬な態度で臨む様になっていき、1987年5月21日にカイロ協定を破棄している。この態度は両者の怒りを生み出し、シリアはアマルやドゥルーズ派のほか、新興勢力であったヒズボラに対してテロリズムも含めたあらゆる支援を与える事となった。 この1982年のレバノン情勢について、藤井昇(藤井厳喜)は、 このときのレバノンは、あたかも第一次世界大戦時のバルカン半島そのものであった。いわば、大きな火薬庫の上で火遊びをしているような状況になってしまったのである。私はこれをレバノンのバルカン化と呼んでいる。 — 藤井昇(藤井厳喜)、『アメリカが日本に仕掛けた情報操作の罠』(はまの出版・1986年)p.184) と述べ、更に、翌年1983年9月に起きた大韓航空機撃墜事件の背景にも、このレバノン情勢を巡る米ソの緊張の高まりがあったと分析して、 「私がレバノンをバルカン半島にたてたのは、第一次世界大戦がバルカン半島から始まったように、このときレバノンを媒介として、アメリカとソ連が直接軍事行動で接触する危機が非常に高まったからであった。このときの状況は、あわや第三次世界大戦始まるのではないかというところまで煮つまっていたのである。昨今、日本では戦略論などが流行っているようだが、当時、中東情勢がこれほどまでに緊迫化していることに本当に気づいていた人がどれほどいただろうか。はなはだ疑問に思わざるを得ない。情勢がそれほど煮つまっていたからこそ、大韓航空機の撃墜などという普通なら考えられないような事件が発生したのである。このときの危機のボルテージの高さは、1962年秋のキューバ危機に相当するか、あるいはそれ以上のものであった。キューバ危機は誰の目にも明らかなものであったが、この83年の中東危機は、多くの人にとってそれほどピンとこないものであった。そしてそのまま誰にも知られることなく、その緊張は低下していったのである。 — 藤井昇(藤井厳喜)、『アメリカが日本に仕掛けた情報操作の罠』(はまの出版・1986年)p.184) との見解を示している。
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