レバノン戦争と多国籍軍の進出とは? わかりやすく解説

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レバノン戦争と多国籍軍の進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:33 UTC 版)

レバノン内戦」の記事における「レバノン戦争と多国籍軍の進出」の解説

1982年6月6日PLOによる駐英大使へのテロ報復と、PLO撤退のためとして、隣国イスラエル越境して侵攻する(レバノン戦争英語版)、ガリラヤの平和作戦)。イスラエル軍LFアマル組みレバノン駐留するシリア軍壊滅させた。この際国産戦車メルカバ初め実戦投入し、ソ連製最新鋭戦車であったシリア軍T-72多数撃破する戦果挙げている。6月13日に西ベイルート突入国際的非難を受けながらもベイルート包囲英語版)を続けるが、西ベイルート占領されたことで徹底抗戦していたPLO8月21日停戦応じ8月30日ヤーセル・アラファート率いPLO指導部および主力部隊チュニジア追放された。ここでアメリカ、イギリスフランスイタリアなどはPLO部隊撤退後パレスチナ難民対す安全保障という名目で、レバノン多国籍軍英語版)を派遣したイスラエルとしてはレバノンを親イスラエル国家として転換させ、シリアひいてはアラブ影響力レバノンから排除したかった(これにはイスラエルが、アメリカジミー・カーター大統領仲介成立したエジプトとの単独和平意識してたとする指摘もある)ため、ファランヘ党創設者ピエール・ジェマイエル(英語版)の息子で、親イスラエル・反シリア急先鋒であり、LFの若いカリスマ的指導者であったバシール・ジェマイエル(英語版)を大統領就任させるつもりであったバシール1982年8月大統領選挙において、ムスリム左派ボイコットを受けながらも当選したが、翌9月ファランへ党本部演説中、爆弾テロによって就任前暗殺されてしまった。後にテロ実行犯として逮捕されたのはシリア社会民族党党員であったが、親イスラエル政権樹立失敗したイスラエルは、この事件PLO残党犯行みなした当時LF情報担当者といわれていたエリー・ホベイカ(英語版率い部隊は、イスラエル軍監視の下、パレスチナ難民キャンプ襲撃し多数難民虐殺したサブラー・シャティーラ事件)。この事件によって、虐殺黙認したイスラエルには特に国際的非難高まりイスラエルキャンプ内においてパレスチナ人捜査LF指示した主張)、当時アリエル・シャロン国防相辞任する事となるが、ホベイカは後述するように親シリアともいわれており、真相は必ずしも明白ではない。 バシール亡き後穏健派目された兄アミーン・ジェマイエル(英語版)が大統領就任したイスラエルは彼とエジプトに続く中東和平条約「イスラエル・レバノン平和条約」を結ぶが、アミーンに弟ほどの人気政治力無く、また世論激し反発招いた事から、最終的に1984年2月破棄された。パレスチナ難民安全保障目的したはずのアメリカ・イギリス・フランスなどの多国籍軍は、内戦終結望まない各派民兵組織政治指導者翻弄される事になる。すでに形骸化していた国軍は、アメリカ海兵隊訓練支援により再生され、西ベイルート中心に若者召集された。だが、アミーンはやがてイスラム教シリアに対して強硬な態度で臨む様になっていき、1987年5月21日カイロ協定破棄している。この態度両者怒り生み出しシリアアマルドゥルーズ派のほか、新興勢力であったヒズボラに対してテロリズム含めたあらゆる支援与え事となった。 この1982年レバノン情勢について、藤井昇藤井厳喜)は、 このときのレバノンは、あたかも第一次世界大戦時バルカン半島そのものであった。いわば、大きな火薬庫の上火遊びをしているような状況になってしまったのである。私はこれをレバノンバルカン化呼んでいる。 — 藤井昇藤井厳喜)、『アメリカ日本仕掛けた情報操作の罠』(はまの出版1986年)p.184) と述べ、更に、翌年1983年9月起きた大韓航空機撃墜事件背景にも、このレバノン情勢を巡る米ソ緊張の高まりがあったと分析して、 「私がレバノンバルカン半島にたてたのは、第一次世界大戦バルカン半島から始まったように、このときレバノン媒介として、アメリカソ連直接軍事行動接触する危機が非常に高まったからであった。このときの状況は、あわや第三次世界大戦始まるのではないかというところまで煮つまっていたのである昨今日本では戦略論などが流行っているようだが、当時中東情勢これほどまでに緊迫化していることに本当に気づいていた人がどれほどいただろうかはなはだ疑問に思わざるを得ない情勢それほどつまっていたからこそ大韓航空機の撃墜などという普通なら考えられないような事件発生したのである。このときの危機ボルテージの高さは、1962年秋のキューバ危機相当するか、あるいはそれ以上のものであったキューバ危機は誰の目にも明らかなものであったが、この83年中東危機は、多くの人にとってそれほどピンとこないものであった。そしてそのまま誰にも知られることなく、その緊張低下していったのである。 — 藤井昇藤井厳喜)、『アメリカ日本仕掛けた情報操作の罠』(はまの出版1986年)p.184) との見解示している。

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