レバノン危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 00:57 UTC 版)
「カミール・シャムーン」の記事における「レバノン危機」の解説
このように、シャムーン政権は、繁栄を謳歌した時代であったが、周辺諸国の政変がレバノンの繁栄を許さなかったことも確かであった。 1952年のエジプト革命によって、ファールーク1世がヨーロッパに亡命を余儀なくされ、事実上、ムハンマド・アリー朝が崩壊すると、政治の実権を掌握したガマール・アブドゥン=ナーセルは、汎アラブ主義がアラブ世界で台頭し、支持を集めるようになった。 1956年、第二次中東戦争が勃発するとヤーフィー首相、サラーム国務大臣は、イギリスとフランスとの断交を迫ったが、この提案は、キリスト教徒のシャムーンには受け入れがたかった。2人の大臣は辞職し、サーミー・アッ=スルフが首相に再任されたが、エジプトとの関係は緊張した。 1957年のアイゼンハワー・ドクトリンの受諾は、エジプトとの対立を決定的なものにした。この宣言の内容は、アメリカと国益を共にする中東諸国が攻撃を受けた場合、アメリカは武力を行使することが出来るというものであった。 1958年、任期終了を近く迎えていたシャムーンに対して、レバノン国内では、袂を分かったヤーフィー、サラームなどのスンナ派グループ、また、シャムーンに粗略に扱われていたキリスト教徒グループは大同団結し、シャムーンの辞任を要求した。とはいえ、初夏の総選挙では、シャムーンの外交政策を支持したキリスト教徒グループ(カターイブ党、民族ブロック)や当時は、イスラム教側も宗派色が強くなかったためにムスリムの多数もシャムーンを支持した結果、シャムーンは選挙に圧勝した。 しかし、ヤーフィー、サラームといった首相経験者のみならず、若きドゥルーズ派の政治指導者カマール・ジュンブラート、ティルス地区のシーア派指導者が落選するこの選挙結果は、レバノン国内の情勢を物騒なものにした。シャムーンによる選挙結果の操縦、新議会でのシャムーンの大統領任期の延長の可能性などから、合法的な政治活動は、困難と見た反対派の一部は、テロへ走った。 さらに、対外情勢がシャムーンの立場を難しくしていた。エジプトの影響の拡大は、アラブ世界に広がりを見せており、1958年2月のエジプトとシリアの合邦によるアラブ連合共和国の成立が、レバノンの暴動をさらに過激なものとした。レバノン国内では、ムスリムを中心にレバノンのアラブ連合共和国への参加を求めるデモが頻発した。加えて、シリアからレバノンへ武器が流入する事態にいたり、国境地帯をレバノン政府は管理することが困難な状況に陥ってしまった。さらに、7月14日、イラクでのクーデターによる政権の転覆が決定打となった。 暴動を鎮圧するためにレバノン軍を出動させようにも、軍の首脳だったフアード・シハーブ将軍は慎重な姿勢を崩さなかった。その背景には、軍隊によるムスリム鎮圧は将来のレバノン政治になお、いっそうの混乱をきたすと考えていたからであり、シャムーンは、これらの暴力行為を抑える友好的な手段を持っておらず、アメリカを頼らざるを得なかった。 アイゼンハワー・ドクトリンとシャムーンの要請に基づき、アメリカ海兵隊がベイルートに上陸した。その翌日には、アイゼンハワー大統領の特使として、国務次官のロバート・マーフィーがレバノンに派遣され、各宗派間の意見の調整が行われた。その結果、シハーブがシャムーンに代わり、大統領に就任した。
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