ルイ・ル・グラン在籍時とは? わかりやすく解説

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ルイ・ル・グラン在籍時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 00:25 UTC 版)

エヴァリスト・ガロア」の記事における「ルイ・ル・グラン在籍時」の解説

ガロア入学した当時王政復古イエズス会影響もあって校長保守的宗教的であり、生徒達校長にしばしば反抗したこのような校内雰囲気が、ガロア性格思想影響与えたようである。一方学業においては入学した翌年第3学年にはラテン語優秀賞ギリシア語最優秀賞を受けるなど良好であった。しかし翌年の第2学年になると学業おろそかにするようになり、また、健康も優れていなかったので、校長からは第2学年もう一度やり直した方が良いという意見出された。当初予定通り修辞学級(第1学級)に進んだものの、やはり態度は改まらず、結局2学期から留年することとなった。 そこで時間持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった当時フランスでは数学教育重視されておらず、数学将来の進む方向によって補習科教えられていたのみだった。当時数学教師ヴェルニエ本名ジャン・イポリット・ヴェロン)は若く熱心であり、エウクレイデスからアドリアン=マリー・ルジャンドルに至るまでの幾何学教えていた。ガロア学友によればガロアルジャンドル著した初等幾何学教科書読み始めたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材2日間で読み解いてしまったという。また同時に、彼は五次方程式解法発見した錯覚し凡庸な数学的才能しか持たないヴェルニエは対応に苦慮したようである。記録によればヴェルニエ初めとする教師ガロアへの評価時間を経るごとに低下したようであり、また学校は「数学への熱狂支配されている」と評価している。1897年に『ガロア全集』に序文加えたエミール・ピカールは、ガロア数学才能開花させたことで「過度自尊心芽生えてしまった」と評している。また1828年理工科学校École Polytechnique)の試験挑戦したが、失敗している。 同年にはガロア飛び級数学特別級に進級した。この時修めた物理化学では「少しも勉強しない」と酷評されている。一方数学ではルイ・ポール・エミール・リシャール(fr)という優れた教師出会いリシャールガロア高く評価した。またリシャールから代数方程式解法に関するジョゼフ=ルイ・ラグランジュ論文薦められたようで、その影響1829年4月1日最初論文循環連分数に関する一定の証明」(Démonstration d'un théorème sur les fractions continues périodique)を発表している。約1ヵ月後、ガロア17歳若さ素数方程式代数的に解く方法発見し、その研究論文オーギュスタン=ルイ・コーシー預けフランス学士院提出するように頼んだが、実際に提出されなかった。1971年数学史家ルネ・タトン(fr)が発見した書簡によればコーシーガロア面会し、その論文1830年1月18日学士院会合の場で発表する約束しておきながら、その日は体調不良により欠席しそれ以降会合でもガロア言及する事はなく、結果的にガロア論文紛失された。こうしたコーシーの若い才能対する無関心は、現代に至るまで後述のリガテリなどによって批判されている。ただし、この経緯には異説もあり、加藤文元コーシーガロア理論高く評価しアカデミー数学論文大賞応募するためにこの論文新たに提出させたと主張している。コーシーその後フランス7月革命契機フランス離れ帰国したのはそれから8年後だった。 さらに1829年7月2日ガロアの父がパリアパート自殺したガロア親族がデュピュイに語った内容によると、当時王政復古の影響教会保守的な勢力占められ教会司祭たちは、自由主義的な思想町長であるガロアの父に対して何かと反発していた。そこで彼らは、ガロアの父の詩の文体真似て卑猥な詩を作り、それが彼のものであると言いふらした。その中には家族を傷つけるものもあった。ガロアの父は精神病むにいたり、その結果自殺したという。父を敬愛していたエヴァリストにとっては、当然この事件は深い傷となった。 さらにその同月または1ヵ月後には、彼は再び理工科学校への受験挑戦した失敗した伝説によれば、この時の口述試験担当者対数に関する愚問しつこく出しガロア回答満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官向かって黒板消し投げつけたという。理工科学校は最も高等な数学教えられ、さらに自由主義的な雰囲気満ちていたためにガロア入学切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロア望み絶たれてしまった。 その後ガロアはルイ・ル・グランに隣接するもう1つ有名な大学準備学校École Préparatoire、後の高等師範学校)を目指す事にした。願書受付期間は既に過ぎていたが、リシャールなどの後押しによって8月20日から25日まで入学試験受験し10月25日入学認められた。さらに12月には文科及び理科バカロレアにも合格した。なお、理科試験において、数学では10点満点8点与えられ、「才能恵まれており、非常に注目すべき研究精神持っている」と賞賛されたが、物理では「彼は全く何も知らず、とてもよい教師になれそうもない」と酷評されている。1830年2月20日には学費支給を受ける代わりに卒業後は10年公教育のために働く旨の契約書提出している。

※この「ルイ・ル・グラン在籍時」の解説は、「エヴァリスト・ガロア」の解説の一部です。
「ルイ・ル・グラン在籍時」を含む「エヴァリスト・ガロア」の記事については、「エヴァリスト・ガロア」の概要を参照ください。

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