ルイ・ル・グラン在籍時
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「エヴァリスト・ガロア」の記事における「ルイ・ル・グラン在籍時」の解説
ガロアが入学した当時、王政復古とイエズス会の影響もあって校長は保守的・宗教的であり、生徒達は校長にしばしば反抗した。このような校内の雰囲気が、ガロアの性格や思想に影響を与えたようである。一方、学業においては入学した翌年の第3学年にはラテン語の優秀賞やギリシア語の最優秀賞を受けるなど良好であった。しかし翌年の第2学年になると学業をおろそかにするようになり、また、健康も優れていなかったので、校長からは第2学年をもう一度やり直した方が良いという意見が出された。当初は予定通り修辞学級(第1学級)に進んだものの、やはり態度は改まらず、結局2学期から留年することとなった。 そこで時間を持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった。当時のフランスでは数学教育は重視されておらず、数学は将来の進む方向によって補習科で教えられていたのみだった。当時の数学教師ヴェルニエ(本名ジャン・イポリット・ヴェロン)は若く熱心であり、エウクレイデスからアドリアン=マリー・ルジャンドルに至るまでの幾何学を教えていた。ガロアの学友によれば、ガロアはルジャンドルが著した初等幾何学の教科書を読み始めたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材を2日間で読み解いてしまったという。また同時に、彼は五次方程式の解法を発見したと錯覚し、凡庸な数学的才能しか持たないヴェルニエは対応に苦慮したようである。記録によれば、ヴェルニエを初めとする教師のガロアへの評価は時間を経るごとに低下したようであり、また学校は「数学への熱狂に支配されている」と評価している。1897年に『ガロア全集』に序文を加えたエミール・ピカールは、ガロアが数学の才能を開花させたことで「過度の自尊心が芽生えてしまった」と評している。また1828年に理工科学校(École Polytechnique)の試験に挑戦したが、失敗している。 同年にはガロアは飛び級で数学特別級に進級した。この時修めた物理と化学では「少しも勉強しない」と酷評されている。一方、数学ではルイ・ポール・エミール・リシャール(fr)という優れた教師に出会い、リシャールもガロアを高く評価した。またリシャールから代数方程式解法に関するジョゼフ=ルイ・ラグランジュの論文を薦められたようで、その影響で1829年4月1日に最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」(Démonstration d'un théorème sur les fractions continues périodique)を発表している。約1ヵ月後、ガロアは17歳の若さで素数次方程式を代数的に解く方法を発見し、その研究論文をオーギュスタン=ルイ・コーシーに預けフランス学士院に提出するように頼んだが、実際には提出されなかった。1971年に数学史家ルネ・タトン(fr)が発見した書簡によれば、コーシーはガロアに面会し、その論文を1830年1月18日の学士院会合の場で発表すると約束しておきながら、その日は体調不良により欠席し、それ以降の会合でもガロアに言及する事はなく、結果的にガロアの論文は紛失された。こうしたコーシーの若い才能に対する無関心は、現代に至るまで後述のリガテリなどによって批判されている。ただし、この経緯には異説もあり、加藤文元はコーシーがガロアの理論を高く評価し、アカデミーの数学論文大賞に応募するためにこの論文を新たに提出させたと主張している。コーシーはその後、フランス7月革命を契機にフランスを離れ、帰国したのはそれから8年後だった。 さらに1829年7月2日、ガロアの父がパリのアパートで自殺した。ガロアの親族がデュピュイに語った内容によると、当時は王政復古の影響で教会は保守的な勢力で占められ、教会の司祭たちは、自由主義的な思想の町長であるガロアの父に対して何かと反発していた。そこで彼らは、ガロアの父の詩の文体を真似て卑猥な詩を作り、それが彼のものであると言いふらした。その中には家族を傷つけるものもあった。ガロアの父は精神を病むにいたり、その結果自殺したという。父を敬愛していたエヴァリストにとっては、当然この事件は深い傷となった。 さらにその同月または1ヵ月後には、彼は再び理工科学校への受験に挑戦したが失敗した。伝説によれば、この時の口述試験の担当者が対数に関する愚問をしつこく出し、ガロアの回答に満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官に向かって黒板消しを投げつけたという。理工科学校は最も高等な数学が教えられ、さらに自由主義的な雰囲気に満ちていたためにガロアは入学を切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロアの望みは絶たれてしまった。 その後、ガロアはルイ・ル・グランに隣接するもう1つの有名な大学・準備学校(École Préparatoire、後の高等師範学校)を目指す事にした。願書受付期間は既に過ぎていたが、リシャールなどの後押しによって8月20日から25日まで入学試験を受験し、10月25日に入学が認められた。さらに12月には文科及び理科のバカロレアにも合格した。なお、理科の試験において、数学では10点満点中8点を与えられ、「才能に恵まれており、非常に注目すべき研究精神を持っている」と賞賛されたが、物理では「彼は全く何も知らず、とてもよい教師になれそうもない」と酷評されている。1830年2月20日には学費支給を受ける代わりに、卒業後は10年間公教育のために働く旨の契約書を提出している。
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