メニュー作戦、クーデター、北ベトナムの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:21 UTC 版)
「カンボジア作戦」の記事における「メニュー作戦、クーデター、北ベトナムの侵攻」の解説
南ベトナム軍事援助司令部(MACV)の新司令官に着任したクレイトン・エイブラムス大将は大統領に就任したばかりのリチャード・ニクソンに対し、B52戦略爆撃機を用いてカンボジアの拠点区域を爆撃するべきだと進言した。ニクソンは当初これを拒否したものの、南ベトナムにおける1969年のミニ・テト攻勢(テト攻勢の1年後に行われた共産軍の攻勢)が始まって転換点を迎えた。ニクソンは、北ベトナム爆撃の中止後にハノイ政府との「合意」違反だと指摘されたことに機嫌を損ね、秘密の航空作戦を承認した。このメニュー作戦(英語版)は3月18日から開始されると、作戦完了の14か月後までに3,000回以上の出撃が行われ、108,000トンの兵器がカンボジア東部に投下された。 1970年1月、シハヌークがフランスへ静養に出かけている間に政府主催の反ベトナムデモがカンボジア中で開催された。動乱が続いたため、ロン・ノル首相兼防衛大臣は共産勢力の支援に使用されていたシハヌークビルの港湾施設を閉鎖し、3月12日には北ベトナムに対して72時間以内のカンボジア領内からの撤退を求める最後通牒を送った。国王シハヌークは共産主義側との暫定協定が潰されたこと憤慨し、カンボジアにいる軍勢を抑制するべくハノイ政府に圧力をかける合意を得るためにモスクワと北京への訪問を直ちに手配した。 3月18日、カンボジア国会はシハヌークを追放し、ロン・ノルを暫定元首に選定した。このことでシハヌークは北京に亡命政府を樹立し、彼自身は北ベトナム、クメールルージュ、ベトコン、そしてラオスのパテート・ラーオと同盟を結ぶこととなった。そうすることで、シハヌークは自分が殆ど管理できなかった運動勢力にカンボジア農村地帯における彼の知名度と人気を利用させた。クーデターに対する北ベトナムの反応は迅速だった。北ベトナム軍はクメールルージュに大量の武器や軍事顧問を直接供給するようになり、カンボジアは内戦に突入した。 ロン・ノルは、カンボジア国民のうち40万人のベトナム人を北ベトナム軍による攻撃を防ぐための人質とみなし、彼らを一箇所に集めて抑留するよう命じた。例えば4月15日には800人のベトナム系男性がチュリチェンガ村に集められ、数人纏めて縛り上げられたまま処刑され、彼らの遺体はメコン川に投棄された。死体は下流域の南ベトナムに浮かんだ。カンボジアの行動は、北ベトナムと南ベトナムの両政府から非難された。 シアヌークビル封鎖以前より、北ベトナム軍はラオス南東部からカンボジア北東部に流入する兵站線(いわゆるホーチミン・ルート)を拡大し始めていた。また、北ベトナム軍はカンボジアのクメール国軍に対する攻勢(X作戦)を開始して、東部と北東部の大部分を素早く掌握し、コンポンチャムなど多数の都市を孤立させ、包囲または制圧を行った。やがて共産軍はカンボジアの首都プノンペン32kmの地点まで接近し、ニクソン大統領を対応へと駆り立てた[要出典]。 1970年3月29日、北ベトナム軍は自ら問題の解決に乗り出して、クメール国軍(FANK)に対する攻勢を開始した。ソ連時代の書庫からの公開文書で、この攻勢はヌオン・チアとの交渉を経た後にクメール・ルージュからの明示的な要請で開始されたことが判明した。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に制圧し、プノンペンの24km以内に迫った。カンボジアの軍勢を打ち破った後、北ベトナム軍は新たに勝ち取った領域を地元の反政府部隊に引き渡した。一方、クメール・ルージュはカンボジア南部および南西部に「解放」区域を設け、そこで北ベトナム側とは独立して活動していた。
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