マルティヌス4世 (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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マルティヌス4世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 03:49 UTC 版)

マルティヌス4世
第189代 ローマ教皇
教皇就任 1281年2月22日
教皇離任 1285年3月28日
先代 ニコラウス3世
次代 ホノリウス4世
司教叙階 1281年3月23日
その他 1261年: 司祭枢機卿
個人情報
出生 1210年から1220年ごろ
フランス王国
死去 1285年3月28日
教皇領ペルージャ
紋章
その他のマルティヌス
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マルティヌス4世Martinus IV, 1210年から1220年ごろ - 1285年3月28日)は、ローマ教皇(在位:1281年 - 1285年)。フランス王国の出身で、本名はシモン・ド・ブリオンSimon de Brion)。在任中は「実質的に教皇領の支配権も譲り渡した」と評されるほどシチリアシャルル・ダンジュー寄りの政策を採用した[1]。シャルルの野心を支持して東ローマ帝国皇帝ミカエル8世破門し、第2リヨン公会議で宣言された東西教会の合同を破綻させた[2]。しかしシャルルはシチリアの晩祷をきっかけとしたシチリア晩祷戦争によりシチリアを失い、これらの政策は無に帰した[2]

生涯

教皇選出以前

フランス王国出身であり、ルーアンで助祭を務めた後、トゥールの聖マルタン教会の参事会会員になり、1260年にフランスルイ9世によりフランス大法官英語版に任命された[2]ウルバヌス4世によりサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会英語版を名義教会として司祭枢機卿に任命され、ウルバヌス4世とクレメンス4世の治世にはフランスへの教皇使節に任命された[2]。教皇使節としてはシチリア王国を条件付きでシャルル・ダンジューに与える権限があった[2]。その後、グレゴリウス10世によってフランスへの教皇使節に再任、今度はフランスにおける教会の腐敗を調査する権限を与えられた[2]。2度目の任期において多くの教会会議を開催した[2]

教皇選出

1280年8月22日ニコラウス3世の没後ヴィテルボコンクラーヴェが開かれたが、シチリアシャルル・ダンジューを支持する枢機卿と反対する枢機卿の間で膠着状態に陥り、半年経っても新しい教皇を選出できなかった[1]。状態が打開されたのは、新しくヴィテルボ市長に就任した人物がシャルル・ダンジューを支持し、オルシーニ家出身のニコラウス3世と同族のマッテオ・ロッソ・オルシーニ英語版ジョルダーノ・オルシーニ英語版を投獄したときであり[1]、投獄の名目は教皇選挙への妨害だった[2]。これにより、シャルル・ダンジューの支持を受けたド・ブリオンが2月22日に教皇に選出されることとなった[1]。教皇名として、フランスの守護聖人トゥールのマルティヌスを記念して「マルティヌス4世」を名乗ったが、「マルティヌス」の教皇名を使用した教皇としては2人目だった[1]。これは13世紀当時、マリヌス1世マリヌス2世が誤って「マルティヌス2世」、「マルティヌス3世」として伝わっていたためである[1]

教皇として

フランス出身だったため、ローマ市民に嫌われてローマ入城を果たせず、ヴィテルボもコンクラーヴェで枢機卿2名を投獄して聖務禁止英語版になったため、マルティヌス4世はオルヴィエートに向かい、3月23日にそこで教皇として戴冠した[2]。以降ほとんどの時期をオルヴィエートで過ごした[1]

在任中はシャルルに依存しきっており(McBrien (1997)は「実質的に教皇領の支配権も譲り渡した」と評した[1])、彼をローマのSummus Senatorに任命した[2]。この名誉職はニコラウス3世がシャルルに辞任を迫り、自身が就任したという経緯があったが、マルティヌス4世はニコラウス3世の政策を完全に取り消す形となった[1]。また、マルティヌス4世はシャルルの軍事力を用いたラテン帝国復活の野心を支持して[1]東ローマ帝国皇帝ミカエル8世破門した[2]。この破門により、第2リヨン公会議で宣言された東西教会の合同が完全に破綻した[2]。これらのフランス寄りの政策により、主にドイツのカトリック教徒が教皇から遠ざけられる結果になった[1]

1282年3月、シチリアの晩祷事件でシチリア住民がシャルルの統治に対し反乱を起こし、シチリア晩祷戦争が勃発した[1]。住民たちはシチリアが教皇領の属国となることを申し出たが、マルティヌス4世は拒否し、住民にシャルルに従うよう命じた[1]。その後、アラゴンペドロ3世が住民に選出されてシチリア王に即位したが、マルティヌス4世はペドロ3世を破門したうえでアラゴン王位を取り上げ、アラゴン十字軍を呼び掛けた[2]。しかしこれらの努力はすべて無に帰し、結局シャルルはシチリアを奪還できなかった[2]

教皇として枢機卿を7人任命しており、そのうちの1人が後に教皇ボニファティウス8世となるベネデット・カエターニだった[2]。またフランシスコ会を支援して、清貧に関する規定を緩め、説教告解の権利を拡大したが、1300年にボニファティウス8世が規定を修正した[1]

1285年3月28日、ペルージャで死去[2]、ペルージャのサン・ロレンツォ聖堂英語版に埋葬された[1]。1月にシャルルが死去しており、10月にフランス王フィリップ3世が、11月にペドロ3世が死去したことも合わせて、シチリア晩祷戦争の主だった参戦国の指導者が同年のうちにほとんど死去した[3][4]。4月2日に行われたコンクラーヴェは1回目の投票でホノリウス4世が選出された[3]

ダンテ・アリギエーリの『神曲』ではボルセーナ湖ヴェルナッチャ・ワイン漬の炙り焼きを過食し、死後煉獄で贖罪の日々をおくっている[5]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o McBrien, Richard P. (1997). Lives of the Popes: The Pontiffs from St. Peter to John Paul II (英語) (1st ed.). New York: HarperCollins. pp. 224–225. ISBN 0-06-065304-3.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Ott, Michael (1910). “Pope Martin IV” . In Herbermann, Charles (ed.). Catholic Encyclopedia (英語). Vol. 9. New York: Robert Appleton Company. pp. 724–725.
  3. ^ a b Ott, Michael (1910). “Pope Honorius IV” . In Herbermann, Charles (ed.). Catholic Encyclopedia (英語). Vol. 7. New York: Robert Appleton Company. pp. 459–460.
  4. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Philip III., king of France” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 21 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 381.
  5. ^ ダンテ神曲』煉獄編 XXIV, 21-24。

関連文献




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