国外での戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 05:13 UTC 版)
「ペドロ3世 (アラゴン王)」の記事における「国外での戦争」の解説
ハイメ1世の治世にアラゴン連合王国の傘下に入っていたチュニジアのハフス朝は、1277年に第2代君主のアブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィルが死去すると、アラゴン連合王国の宗主権のくびきを投げた。ペドロ3世はチュニジアの宗主権を再取得するために、1280年にクンラッド・ダ・リャンサが率いる最初の遠征隊をチュニスに送った。1281年にはコンスタンティーヌの統治者の代わりにチュニジアを侵略するために、ペドロ3世自身が140隻の艦隊と15,000人の兵士を引き連れてチュニジアに向けて出港し、艦隊は1282年にコロ(英語版)から上陸した。 1282年3月30日にイタリアのシチリア王国でシチリアの晩祷事件が起こると、アラゴン連合王国の軍隊はシチリア大使から、フランス王家の傍系であるアンジュー家のシチリア王カルロ1世(アンジュー伯シャルル1世)の王座を奪うことを要請された。ペドロ3世自身もプッリャ公ロベルト・イル・グイスカルドの娘マファルダの血を引く相続人であった。1127年のプッリャ公グリエルモ2世の死去でプッリャ公爵家が途絶えると、一見するとマファルダの相続人がロベルト・イル・グイスカルドとその妻シジェルガイタの「正当な」相続人となった。このようにペドロ3世は南イタリアのオートヴィル朝(ノルマン朝)の潜在的な王位請求者であった。より直接的には、ペドロ3世の王妃コンスタンサ・デ・シシリアがシチリア王マンフレーディの王女であり、そのためにペドロ3世はマンフレーディの相続人であった。以後の500年間、アラゴン王家とその相続人は、シチリア王国とその後継王国に対して執拗に王位継承の追及を行った。 シチリアではペドロ3世の代わりにイタリア人医師ジョヴァンニ・ダ・プローチダ(イタリア語版)が行動した。1268年、カルロ1世がタグリアコッツォの戦い(英語版)でマンフレーディの甥コッラディーノに勝利すると、ジョヴァンニはいったんイタリアからアラゴンに逃げたが、再度シチリアまで旅し、ミカエル8世パレオロゴスの支援を得るためコンスタンティノープルを訪れた。ミカエル8世はローマ教皇の承認のないアラゴン王国の救済を拒否したため、ジョヴァンニはローマまで航海して、南イタリア(メッツォジョルノ)でのカルロ1世の勢力拡大を恐れていた教皇ニコラウス3世の同意を得た。その後ジョヴァンニはイベリア半島のバルセロナに引き返したが、その間にニコラウス3世が死去してマルティヌス4世に代替わりした。マルティヌス4世はフランス人であり、カルロ1世の忠実な同盟者だったため、紛争の発生を予感させた。 アルコイルでパレルモの住民からの使節を受けると、ペドロ3世は1282年8月30日にトラーパニからシチリア島に上陸し、9月4日にはパレルモでこの地の王を宣言した。カルロ1世はメッシーナ海峡を渡ってイタリア本土に逃げることを余儀なくされ、そこでナポリ王国を建てた。カルロ1世と親密な教皇マルティヌス4世はペドロ3世を破門し、さらにはペドロ3世に60,000枚の金貨を提供して11月18日にシチリア島を侵略した東ローマ皇帝ミカエル8世をも破門した。 シチリア島を奪っただけではなく、1283年2月時点でペドロ3世はイタリア半島最南部のカラブリアの海岸線の大半を奪っていた。絶望的な状況だったカルロ1世はペドロ3世に手紙を送り、両者が個人的な決闘を行って紛争を解決することを求めた。ペドロ3世はこれを受け入れ、カルロ1世はフランスに戻って決闘を準備した。両国王はそれぞれ6人の騎士を選び、6月1日にボルドーで決闘を行うことを決めた。それぞれの側には100人の騎士が付き、教皇の忠告によってイングランド王エドワード1世が判定役に推挙されたが、エドワード1世は決闘への参加を拒否した。ペドロ3世はフランス人の待ち伏せを避けるために変装してフランスに入った。言うまでもないことではあるが、ペドロ3世とカルロ1世との決闘は行われず、ペドロ3世は非常な混乱状態にあったアラゴンに引き返した。ペドロ3世がイベリア半島に戻った一方で、ルッジェーロ・ディ・ラウリーア(イタリア語版)将軍が地中海地域の大混乱を制圧する役割を果たした。ルッジェーロ将軍は何度も艦隊を率いてカルロ1世を攻め、アラゴン連合王国のためにマルタ島を征服した。
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