国外での監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 08:00 UTC 版)
ワールドカップ前にFAは、エールディヴィジ4連覇、UEFAチャンピオンズカップ 1987-88を制したフース・ヒディンクの後任としてPSVアイントホーフェンの監督に就任するため、ロブソンとは契約を延長しないことを発表していた。PSVはヒディンクと同様にチームに規律を植え付けることができる監督を捜していた。ロブソンはこの監督就任について「カルチャーショック」ではあるが「冒険心をくすぐられる」と述べた。ワールドカップ前に明らかとなったため、タブロイドはロブソンの愛国心について疑問を呈し、『トゥデイ』は裏切り者だと酷評した。 オランダ人の戦術に対する議論を好む姿勢はロブソンを驚かせ、オランダのサッカー専門誌『フェトバル・インターナショナル』のインタビューでは、「イギリス人選手は監督の決定を受け入れるが、ここではすべての試合の後に控えに回された選手が私に会いに来る。」と嘆いた。また、PSVにはブラジル代表のロマーリオが在籍しており、ロブソンは試合中に見せる素晴らしいプレイは認めていたが、サッカーに取り組む姿勢については不満を抱いていた。アシスタントコーチのフランク・アルネセンに通訳の役割を頼み、話し合いの場を設けたが、ロマーリオは自身のライフスタイルを変えたがらなかった。それでもPSVは1990-91シーズンと1991-92シーズンとリーグ戦で2連覇を果たしたが、ヨーロッパの大会では期待された以上の成果を出せず、ロブソンは1991-92シーズン終了後にクラブを去ることになると悟っていた。 1992年7月にスポルティングCPの監督に就任し、ポルトガル語の通訳は、将来的にFCポルト、チェルシー、インテル、レアル・マドリードで監督を務めることになる若きジョゼ・モウリーニョが担った。就任1年目のシーズンは3位で終了したが、クラブ内の状況は良くなく、ロブソンが興味を持っていない選手と契約をすることが多かったため、ロブソンは会長を「問題児」だと述べた。1993年12月、チームはリーグ戦で首位を走っていたが、ロブソンは監督を解任された。会長であったソウザ・シントラは、カジノ・ザルツブルクに敗れ、UEFAカップで早期敗退したことが解任の理由だと述べた。 スポルティングのライバルであるFCポルトはすぐにロブソンに接触し、モウリーニョはアシスタントコーチに指名された。同じアパート群に住んでいた当時16歳のアンドレ・ビラス・ボアス(将来FCポルト、チェルシー、トッテナム・ホットスパーで監督を務めることになる)はロブソンに自身を売り込み、ロブソンはその後ポルトの分析を行う部門で働けるよう手配し、17歳と技術的に未熟であるにも関わらず、スコットランドでUEFAのCライセンスが取得できるよう手助けをした。監督に就任した当時のポルトは貧しく、平均観客動員数は1万人にまで下がっていたが、タッサ・デ・ポルトガルの決勝に進出し、ロブソンが監督を務めていたスポルティングを破り、タイトルを獲得した。翌1994-95シーズンはリーグ戦で優勝し、1995-96シーズンには連覇を達成した。 ポルトで実績を残し、5-0で勝つ試合が何度もあり、地元では「ボビー・ファイブ・オー」と讃えられ、1995年にはクラブと新たな契約を結んだ。悪性黒色腫の影響により、1995-96シーズンの始めの5ヶ月は監督業から一時離れたが、リーグタイトルの防衛には成功した。ロブソンが去った後、クラブはリーグ戦で3連覇を達成することになるが、その礎を築いたのはロブソンであると言って差し支えなかった。 1996年の夏、FCバルセロナの副会長であったホアン・ガスパルトからルイス・フィーゴのことについて電話を受けたが、結果的に監督就任のオファーを受けた。1996年7月に監督に就任したが、モウリーニョのアシスタントコーチ起用を条件に挙げ、再び一緒に仕事をすることになった。短い監督就任期間中にロブソンが下した重要な決定の一つは1950万ドルで獲得したロナウドとの契約であり、コパ・デル・レイ、スーペルコパ・デ・エスパーニャ、UEFAカップウィナーズカップのタイトル獲得に大きな影響を与えた。ロブソンは1996-97シーズンのヨーロッパ最優秀監督に投票で選ばれ、ロナウドは、「疑うまでもなく世界で最も優れた監督の一人だ。」と称えた。 1997-98シーズンはルイ・ファン・ハールが監督に就任し、ロブソンはゼネラルマネージャーに押し上げられた。しかし、そのポストには1シーズンしか残らず、1998-99シーズンにはPSVと短期間の契約を結んだ。リーグ戦ではフェイエノールト、ヴィレムIIの後塵を拝したが、ヨハン・クライフ・スハールでは優勝し、最終戦を終え3位に着けたため、チャンピオンズリーグの予備予選への出場権も獲得した。
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