マルティニーク島侵攻 (1759年)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マルティニーク島侵攻 (1759年)の意味・解説 

マルティニーク島侵攻 (1759年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/10 09:06 UTC 版)

マルティニーク島侵攻
戦争七年戦争
年月日1759年1月16日 - 1月19日
場所西インド諸島マルティニーク
結果:フランスの勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国 フランス王国
指導者・指揮官
ペレグリン・ホプソン英語版
ジョン・バリントン英語版
ジョン・ムーア英語版
フランソワ5世・ド・ボアルネ英語版
戦力
戦列艦10隻
正規軍4,500-5,000
損傷した戦列艦1隻
正規軍250
民兵数千

マルティニーク島侵攻(マルティニークとうしんこう、英語: Invasion of Martinique)は七年戦争中の1759年1月、ペレグリン・ホプソン英語版率いるイギリス軍による、フランス領マルティニークの占領を目的とする水陸両用作戦[1]

経過

マルティニーク島に着いたイギリス艦隊はフォール=ロワイヤルの要塞に砲撃したが、要塞が高台にあったため効果が薄く、また近くに上陸に適する場所もなかった。イギリスの指揮官たちは知らなかったが、この時点ではマルティニーク総督のフランソワ5世・ド・ボアルネ英語版が数か月間補給を受けていなかったため、要塞は短期間の包囲だけで降伏するであろうもろいものであった。しかし、ムーアとホプソンは包囲せず、当時のマルティニークの中心地で貿易港であったサン・ピエールの攻撃を計画する始末であった。1月19日の砲撃が再び失敗すると、イギリス軍は撤収して、代わりにフランス私掠船の本拠地グアドループ島を攻撃した[2]

その後

イギリス軍はグアドループに攻撃を加え、同年5月に降伏させた[3]。マルティニークは1762年に再び侵攻され、今度はイギリス軍が占領に成功した。

関連項目

  • 七年戦争下のイギリス英語版
  • 七年戦争下のフランス英語版

脚注

  1. ^ Anderson p.312–313
  2. ^ Dull, pp. 138–139
  3. ^ Simms p.451

参考文献

  • Anderson, Fred. Crucible of War, Faber and Faber, 2000
  • Dull, Jonathan The French Navy and the Seven Years' War
  • McLynn, Frank. 1759: The Year Britain Became Master of the World. Pimlico, 2005
  • Simms, Brendan. Three Victories and a Defeat: The Rise and Fall of the First British Empire. Penguin Books, 2008



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マルティニーク島侵攻 (1759年)」の関連用語

マルティニーク島侵攻 (1759年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マルティニーク島侵攻 (1759年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマルティニーク島侵攻 (1759年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS