ポスト・ブレトン・ウッズ金融秩序:1976年
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1969年の合意条項の最初の改正の一環として、IMFは特別引出権(SDR)と呼ばれる準備手段を開発した。これは中央銀行によって保有され、金の代わりとして相互に交換される。1970年に始まったSDRは市場バスケットの単位であり、もともと世界の全輸出額に占める割合が1%を超える主要貿易通貨16種で構成された。バスケットの構成は時とともに変化し、現在は米ドル、ユーロ、日本円、中国人民元、および英ポンドで構成される。各国はSDRを準備金として保有する以外に、自国とSDR基金との間の取引をSDR建てで表示することができる。しかしSDRを貿易の手段に使うことはできない。国際取引では、通貨バスケットのポートフォリオ特性により、変動為替レートに内在する不確実性に対して高い安定性が得られる:34–35:50–51:117:10。SDRはもともと特定額の金と同価値とされたが、金と直接引き換えることはできず、代わりに金と交換できる通貨を取得するための代用物として機能した。IMFは当初1970年から1972年にかけて95億XDRを発行した:182–183 1976年1月にIMF加盟国はジャマイカ協定に署名し、ブレトン・ウッズ体制の終焉を確認した。この協定により、IMFは方針を見直し国際通貨制度を支援する役割を担うことになった。この協定はスミソニアン協定の措置が失敗した後に現れた柔軟な為替レート制度を正式に採用した。これは為替レートの変動を認めるとともに、過度の変動を解消する目的で中央銀行が介入することを認めた。この協定は金準備の放棄を過去に遡って正式なものとした。その後IMFは金準備を非貨幣化し、金を加盟国に返還するか、貧困国救済金の原資のために売却するかした。その結果、開発途上国や石油輸出資源に恵まれない国々はIMFの融資プログラムの利用を拡大した。IMFは、国際収支赤字や通貨危機に瀕した国々を支援していった。支援を与える国には緊縮政策を義務付けた。歳出削減や増税による赤字削減、保護貿易障壁の引き下げ、金融引き締め政策などである:36:47–48:47–48:12–13。 合意事項の2回目の改正は1978年に調印された。それは、ジャマイカ協定によって達成された自由フロートの受容と金の非貨幣化を合法的に正式化し、そして加盟国にマクロ経済政策を通して安定した為替レートを維持することを要求した。ポスト・ブレトンウッズ体制は、加盟国が為替レート制度の選択において自己決定権を保持するという意味で分権化された。この改正により機関の監督権限が拡大した。加盟国は、制度の運営に関してIMFと協力し、通貨の持続可能性を保つことを求められた:62–63:138。この役割はIMFサーベイランスと呼ばれ、IMFの使命の進化の基軸として認識されている。これは国際収支の問題を超えて各国の経済政策全般に加わる内外のストレスに対する幅広い関与へと拡張された:148:10–11。 柔軟な為替レートが広まったことで、外国為替市場はかなり不安定化した。1980年にロナルド・レーガンが米国大統領の選出された。レーガン政権の政策は国際収支の赤字と財政収支の赤字の増加をもたらした。この双子の赤字を補うために、米国は人為的に実質金利を高めて外国からの資本流入を誘った。米ドルに対する外国人投資家の需要が高まるにつれて、ドルは大幅に増価し、1985年2月にピークに達した。その結果1985年の米国の貿易赤字は1,600億ドルに増えた(2012年の3,410億ドル相当)。G5は1985年9月にニューヨークのプラザホテルで会合し、米国の貿易赤字を解消するため外国為替市場に協調介入し米ドルを減価させることに合意した。これをプラザ合意という。これにより米ドルは減価したが、先進諸国は米ドルの大幅減価により為替レートの振幅が増すことを懸念するようになった。これらの懸念に対処するため、G7は1987年のパリ・サミットで、為替レートの安定化を追求することと、マクロ経済政策を調整することに合意した。これをルーブル合意という。この合意は管理フロートの由来になった。外国為替市場での過小評価や過大評価を解消するために中央銀行が協調介入する管理フロートは自由フロートに代わって通貨を安定させた。1990年代に管理フロートを取り入れられ後、為替レートが安定するとともに、米国経済は1997年から2000年までのITバブル期に高いパフォーマンスを示した。2000年のITバブル崩壊に伴う株式市場の修正局面で米国の貿易赤字が拡大した後、2001年に9月11日テロ攻撃で政治的な不確実性が高まり、ドルが減価し始めた:175:36–37:37:147:16–17。
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