ポスト・ブレジネフを巡る権力闘争
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「ユーリ・アンドロポフ」の記事における「ポスト・ブレジネフを巡る権力闘争」の解説
アンドロポフは、ブレジネフの指導力が低下するに連れ、外相のアンドレイ・グロムイコ、国防相のドミトリー・ウスチノフとともにトロイカを組み、ソビエトの政策決定に大きな役割を果たすようになる。1982年1月、ブレジネフ政権を支え続けたミハイル・スースロフが死去。2月になるとスースロフの死を待っていたかのようにブレジネフ一族のスキャンダルがモスクワ中に広まった。摘発の黒幕は他でもなくアンドロポフだったという。彼はブレジネフ一族及びブレジネフの贔屓で指導部に入り込んだアンドレイ・キリレンコ、コンスタンティン・チェルネンコ、ウラジーミル・シチェルビツキーら側近の乱脈な生活ぶりを苦々しく思っていたという。ブレジネフの追い落としまでは考えないが、いずれ来るその死去の際には、ブレジネフの意中の人物とりわけチェルネンコを後継者の座に就かせないことが狙いだとされた。5月にスースロフの後任として中央委員会イデオロギー担当書記に就任し、第二書記としての地位を確立。ブレジネフの最側近で後継者と目されたチェルネンコを追い上げていった。
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