ヒスイ文化の消滅と最後の使用例
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「糸魚川のヒスイ」の記事における「ヒスイ文化の消滅と最後の使用例」の解説
隆盛を極めたヒスイ文化は、奈良時代には急速な衰退を迎えた。原産地である糸魚川では、古墳時代(6世紀初頭)にヒスイ製の勾玉づくりが終了した。そして、奈良時代におけるヒスイの最後の使用例としては、奈良市にある東大寺法華堂(三月堂)の本尊、不空羂索観音立像(像高362.0センチメートル、脱活乾漆造、国宝)が知られる。天平年間(740年-747年)造立と推定されるこの立像は、頭部に銀製の冠(高さ88センチメートル)を載せている。冠の中心部には高さ23.6センチメートルの化仏が位置し、銀の板と銀製の太い針金、銀金具(唐草模様が透かし彫りにされている)で構成されている。冠の頂上部には火焔つきの宝珠が載り、さまざまな材質(ヒスイ、琥珀、水晶、真珠、ガラスなど)の勾玉などが銀線でつなげられている。 この冠に使われた宝玉の数は2万数千個に上るといい、その豪華さから「世界三大宝冠」の1つに数えられている。冠の正面上方からは、宝玉の連なりからなる瓔珞12本が垂れていて、その先端から勾玉が垂下している。中央に位置する瓔珞の先端部は破損のため失われているが、残りの11本のうち7本ないし8本には硬玉(ヒスイ)の勾玉が垂下し、残りの3本は茶色の琥珀製勾玉である。 不空羂索観音立像の冠を最後として、日本の歴史からヒスイは姿を消している。約6000年続いたヒスイ文化が消滅した理由は不明とされるが、仏教の伝来に関係を求める意見がある。538年(欽明天皇7年)、百済からもたらされた仏教をめぐって、受入れを可とする蘇我氏が権力闘争に打ち勝ち、伝統的な神々の祭祀を重んじる物部氏や中臣氏を政権から排除した。それは同時にヒスイを威信財としてその霊力や価値を尊んできた人々の失墜であった。ヒスイは仏教の伝来前に長きにわたって尊ばれてきたものだったため、仏教を広めていく立場からは都合の悪い存在でもあった。 飯田孝一は自著『翡翠』(2017年)において、ヒスイが歴史上から消えた理由を考察している。彼の推定は、西日本経由で大陸からヒスイ探索の大集団が侵入してきたことを察知したため、ヒスイそのものを隠匿せざるをえない状態に至ったのではないかという考えである。 河村好光はヒスイ玉を始めとする玉作りが衰退していく6世紀代の古墳から出土する装飾品、服飾品の内容から、石製の玉類が無くなっていくことを指摘し、その一方で7世紀後半から8世紀にかけて東北地方北部で造られた末期古墳からヒスイ勾玉を含む豊富な玉類が出土することから、6世紀代以降、畿内を中心とした国家では玉を使用する文化が衰退し、玉を用いる文化を維持し続けた東北地方北部を夷狄とみなす概念が生まれ、やがて玉を使うこれまでの文化を未開文化であるとして排斥するようになったのではと推測している。 朝鮮半島でも6世紀前半までは盛んに古墳に副葬されていたヒスイ勾玉が、6世紀中期以降副葬が見られなくなっていく。やがて7世紀には日本と同様に寺院の塔の心礎に埋納する例が確認されるようになる。そして8世紀から9世紀の統一新羅時代のものと考えられている大邱市の松林寺の塔からヒスイ勾玉が1個出土しているが、この勾玉は三国時代の新羅の古墳から出土した勾玉と類似しており、伝世品ないし出土品を利用した可能性が指摘されている。寺村は『日本書紀』にある任那の滅亡(562年)に言及し、「このころを契機として、朝鮮半島との交流が後退することは確かであろう。ここにヒスイはその務めを終えたようである」と記述した。
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