ヒスイ利用の発展と勾玉の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)
「糸魚川のヒスイ」の記事における「ヒスイ利用の発展と勾玉の出現」の解説
縄文時代晩期の遺跡には、ヒスイ製の玉製品の出土例が多くみられる。しかし弥生時代の遺跡では、ヒスイの出土する例はそれほど多くない。寺村光晴は弥生時代前期遺跡(特に初めのころの遺跡)について、ヒスイ製の遺物が絶無とまではいえないものの、ほとんどみられないことを指摘している。 弥生時代前期にヒスイ製品の出土例が少ない理由としては、ヒスイが使用されなかったというわけではなく、伝世品(でんせいひん)として大切にされながら次の世代に受け継がれていった例が多かったためとの推定がある。弥生時代のヒスイ利用分布は縄文時代とはかなり異なっていて、北日本での出土例が少なく、中部地方から西日本での出土例に中心が移っている。この時代の出土例は、どの地域においても太平洋側では少ない。 ヒスイ製の勾玉は、縄文時代に作られ始めた。初期に制作されたものは獣形勾玉(動物に類似した形状のもの)や緒締形勾玉(幼虫やさなぎに類似した形状を示すもの)であったが、やがてC字型(丁子型)の勾玉が出現した。 弥生時代中期のヒスイ製勾玉の出土例として知られるものに、佐賀県唐津市の宇木汲田(うきくんでん)遺跡がある。この遺跡では、弥生時代中期を中心とする甕棺墓が約150基以上確認された。これらの甕棺墓からは、銅剣・銅矛とともにヒスイ製や碧玉製の勾玉が発見された。発見された勾玉は、縄文期の特徴を示す獣型や緒締形の他に丁子型も出土している。これは、ヒスイ製の勾玉が時代を超えて受け継がれてきたことを示すものである。なお弥生時代中期は糸魚川周辺のヒスイ玉製造が中断していたものと推測されている。この時代、糸魚川周辺の集落自体ごく少なかったと見られており、ヒスイ原石は周辺の現在の新潟県、石川県、福井県域の集落に持ち込まれて加工されていた。 寺村は弥生時代前期にヒスイの玉がなく、中期になると急増することについて「一つの謎といってよい」と記述している。その謎について、寺村は小林行雄と森貞次郎の説を取り上げた。2人の説に共通するのは、弥生時代の前期にはヒスイ製勾玉は伝世されていたが、中期の前半になって東日本または九州地方にあった伝世品のヒスイ製勾玉が収集されて墓に埋納されたということである。 弥生時代のヒスイ出土状況の特徴として、まず九州北部にヒスイ原石が運ばれ加工されるようになったことが挙げられる。弥生時代の北部九州では丁字頭勾玉を始め5種類の勾玉製造が確認されており、中期はこれらの勾玉の流通はほぼ九州北部に限られていた。しかし弥生時代後期になると分布域が東へと拡大し、中でも丁字頭勾玉は北陸、本州中央高地まで達した。丁字頭勾玉はガラス製のものも作られていたが、発祥地の北部九州ではヒスイ製丁字頭勾玉は勾玉類の最上位に位置付けられていた。このヒスイ製丁字頭勾玉が勾玉類の最上位と見なす概念は各地へと広まっていき、古墳時代終末期に至るまでヒスイ製丁字頭勾玉は副葬品として用いられていくことになる。
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