ノーベル賞受賞とその前後とは? わかりやすく解説

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ノーベル賞受賞とその前後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:57 UTC 版)

湯川秀樹」の記事における「ノーベル賞受賞とその前後」の解説

1929年昭和4年)、京都帝国大学理学部物理学科卒業同大玉城十郎研究室副手となる。1932年昭和7年)、京都帝国大学講師1933年昭和8年)、東北帝国大学日本数学物理学年会開催され時に八木秀次知り合い当時大阪帝国大学理学部物理学科(は塩見理化学研究所)の初代主任教授就任した八木頼んで大阪帝国大学講師を兼担することになる。 教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であった伝えられている。この頃大阪胃腸病院1950年湯川胃腸病院改称)の院長湯川玄洋の次女湯川スミ本名澄子)と結婚し湯川家婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。 大阪帝国大学移籍後、全く成果出ない湯川八木はさらに勉学努めるよう注意した上で、「本来なら朝永君(朝永振一郎)に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」とまで叱責した。内山龍雄によれば八木口の悪いこと有名だったという。 1934年昭和9年)に中間子理論構想を、翌1935年昭和10年)に「素粒子の相互作用について」を発表し中間子現在のπ中間子)の存在予言する未知の新粒子存在主張する学説対し欧米諸国科学者多く否定的であり、量子論開拓者であるニールス・ボーア1937年訪日の際、「君はそんなに粒子つくりたいのかね」と湯川批判したという。日中戦争激化に伴い欧米諸国から孤立しつつあった日本科学者海外からなかなか評価されなかった。しかし、中間子によく似た重さの新粒子(「ミュー粒子」)が宇宙から地球へ降り注ぐ宇宙線」のなかから見つかったカール・デイヴィッド・アンダーソン発表したことで、湯川中間子論世界的に注目されるようになった湯川1939年ソルベー会議招かれた。会議自体第二次世界大戦勃発中止されたものの、渡米してアインシュタインらと親交持ったこうした業績評価され1940年昭和15年)に学士院恩賜賞受賞1943年昭和18年)には最年少文化勲章受章した太平洋戦争末期1945年6月には、日本海軍中心とする原爆開発プロジェクト(F研究)の打ち合わせ招請されたが、開発本格化する前に日本敗戦迎えた広島市への原子爆弾投下について解説求め新聞社依頼湯川断ったが、戦後日本占領したアメリカ軍から事情聴かれている。こうした経緯記した日記2017年12月京都大学湯川記念館史料室により公開されている。 1947年昭和22年)にセシル・パウエル等が実際にπ中間子発見したことで1949年昭和24年)にノーベル物理学賞受賞した。これはアジア人としては作家タゴール物理学者チャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目受賞者だったが、日本人として初めてのノーベル賞受賞だった。ニュース敗戦占領下自信失っていた日本国民大きな力を与えた。なお、2000年湯川ノーベル賞選考関連文書調査した岡本拓司は、推薦状大半外国推薦者から出されていた点などを挙げ、「ノーベル賞歴史中でもまれなほど、研究成果との関係が明瞭あるよう思われる」と述べている。 戦後は非局所理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には繋がらなかった。一方マレー・ゲルマンクォーク理論については「電荷が.mw-parser-output .sfrac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .sfrac.tion,.mw-parser-output .sfrac .tion{display:inline-block;vertical-align:-0.5em;font-size:85%;text-align:center}.mw-parser-output .sfrac .num,.mw-parser-output .sfrac .den{display:block;line-height:1em;margin:0 0.1em}.mw-parser-output .sfrac .den{border-top:1px solid}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1/3とか2/3とか、そんな中半端なものが存在する訳がない。」と否定的であった。 またその一方で反核運動にも積極的に携わりラッセル=アインシュタイン宣言マックス・ボルンと共に共同宣言者として名前を連ねている。上記のように、戦中には荒勝文策率い京大グループにおいて、日本原爆開発関与したことが確認されている。

※この「ノーベル賞受賞とその前後」の解説は、「湯川秀樹」の解説の一部です。
「ノーベル賞受賞とその前後」を含む「湯川秀樹」の記事については、「湯川秀樹」の概要を参照ください。

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