デルタ拡大と広島の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:32 UTC 版)
太田川の下流域は日本でも有数の三角州地帯を形成しており、上流から流下してきた土砂が堆積し広島平野を形成していった。中世安芸太田町(旧戸河内町)を境に上流部を太田郷に因んで「太田川」、下流部を佐東郡に因んで「佐東川」と呼称していた。その後水運の発達で加計より舟運航路が整備され河川の統一呼称が必要となり、1792年(寛政4年)に現在の「太田川」に呼称が統一された。 太田川流域の開発は、下流部の干拓工事より始まる。中国7ヶ国(安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・備中)を制圧した毛利元就の嫡孫・毛利輝元は鎌倉以来毛利氏代々の本拠であった吉田郡山城(安芸高田市)から佐東郡五ヶ郷の太田川河口部に新城郭を築造し本拠とした。1589年(天正17年)より10年を掛けて建設された広島城は豊臣秀吉の大坂城・聚楽第を参考に建設された城郭で、太田川を天然の水濠とした要塞であった。だが、土地は低湿地帯にあって普請奉行である穂井田元清(元就四男)らは埋立て工事に苦心している。鍬入れ式(現在の起工式に当たる)の頃に「広島」の地名が定まったと言われている[誰によって?]。 広島城完成の翌年1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発した。五大老の一員で西国の旗頭でもあった輝元は奉行・石田三成の要請を受け大坂城に入城、西軍総大将に就き徳川家康に敵対した。義兄弟の契りを結んでいた筈の輝元が敵対したことに対する家康の怒りは激しく、全領地没収を考慮したが東軍に内応した吉川広家(輝元の従兄弟)の必死の嘆願により改易は免れた。だが周防・長門2ヶ国に減封され完成したばかりの広島城を明け渡す羽目に陥った。 毛利氏の後には関ヶ原で東軍の先鋒として戦功著しかった福島正則が安芸・備後49万8000石の太守として入封した。正則も太田川三角州の整備と干拓を推進したが、城下を横断する城北川の締切と築堤を行い広島城下の整備と洪水対策を実施したが、1617年(元和3年)太田川が氾濫し広島城が破損した。城郭の無断修築は武家諸法度違反に当たるため、正則は本多正純を通じて修築願を出すが幕府からの沙汰がなく、痺れを切らした正則は独断で修築を開始した。これが幕府の忌諱に触れ、2代将軍・徳川秀忠は信濃高井野4万石への大幅な減転封を命じた。背景には外様大名に対する幕府の抑制策の格好の標的として、豊臣氏に極めて恩顧の情が厚かった正則を除く為に広島城修築許可を出さなかったとも言われている[誰によって?]。福島氏改易後は紀伊和歌山より浅野長晟が42万石で入封、広島藩主となった。以後浅野氏が幕末までこの地を支配することになる。
※この「デルタ拡大と広島の発展」の解説は、「太田川」の解説の一部です。
「デルタ拡大と広島の発展」を含む「太田川」の記事については、「太田川」の概要を参照ください。
- デルタ拡大と広島の発展のページへのリンク