チェンバレンの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 05:49 UTC 版)
「ミュンヘン会談」の記事における「チェンバレンの介入」の解説
これを憂慮したフランス首相エドゥアール・ダラディエは、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンにヒトラーを含む首脳会談の開催を提案した。チェンバレンは戦争回避のため自らドイツに出向いてヒトラーと会見する意志を固め、9月15日にベルヒテスガーデンでヒトラーとチェンバレンによる英独首脳会談が行われた。次の首脳会談までの間武力行使は行わないというヒトラーの約束をとりつけたチェンバレンは、内閣と協議するため一時帰国した。 一方でフランスおよびチェコスロバキアと相互援助条約を結んでいたソビエト連邦は、ルーマニア領とポーランド領をソ連軍に通過させることを条件として、チェコ支援の姿勢を示した。しかしベッサラビア問題でソ連と係争中のルーマニアはソ連軍を公然と領土通過させる事を認めなかった。またフランスも反共感情が強いイギリスに配慮する必要があった上に、大粛清で国力が低下していたソ連に頼ることはできないと考えた。ソ連もやがてチェコ問題に介入する熱意を持たなくなった。 チェンバレンはチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相ダラディエと外相ジョルジュ・ボネ(英語版))をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意した。9月19日にプラハ駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュにズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告した。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶した。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関心を持たない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行った。翌日チェコスロバキアのミラン・ホッジャ内閣は総辞職し、ヤン・シロヴィー内閣が成立した。 この成果を携えて、22日にチェンバレンはゴーデスベルクでのヒトラーとの会談に臨んだ。しかしヒトラーはズデーテン地方の即時占領を主張し、また同日にハンガリー王国がスロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがチェスキー・チェシーンの割譲をチェコスロバキアに要求していることを口実にチェンバレンの調停を拒否。会談は物別れに終わった。チェンバレンはヒトラーの強硬姿勢に驚き、外交的圧力のためにチェコスロバキアに動員の解禁を通告した。 後にデビッド・ロイド・ジョージ元首相が、ソ連大使イワン・マイスキーに語ったところによると、この時期チェンバレンが元首相スタンリー・ボールドウィンから「あなたは、どんな侮辱を受けても戦争を回避しなければならない」という助言を受けていた。ボールドウィンはイギリスの戦争準備が不十分であることを指摘し、戦局が悪化すれば大衆の感情が悪化し、「貴方と私たちを街灯の電柱で絞首刑にするだろう」と告げている。ロイド・ジョージはチェンバレンはこの助言の影響を強く受けたものと見ている。また外相ハリファックス伯はイギリス世論で平和主義が広がり、何よりも戦争回避が優先されたために強硬策がとれなかったと回想している。 23日、チェコスロバキアは総動員を布告した。ほぼ同じ頃、ドイツはズデーテン地方の即時割譲(一部の地域は人民投票で帰属を決定すること)を要求した。要求には即時割譲地域から9月28日までにチェコスロバキア軍・警察・官吏の即時退去させること、ただし家畜や産業資材などの動産の移動不可も指定しており、一方的な最後通告であった。 24日にフランスは条約に基づいて14個師団の動員を開始した。25日、チェコスロバキアは要求を拒絶し、英仏両国の支援を期待した。しかしフランスのボネ外相が「1938年にドイツに開戦したところで、1940年の敗北が2年早く訪れただけ」だと回想するように、英仏の戦争準備は整っていたわけではなかった。またフランスの新聞の大勢が戦争回避を訴えていたように、チェコスロバキア擁護のために第二次世界大戦を始めるべきという意見は、大衆の中においては極めて少数派であった。
※この「チェンバレンの介入」の解説は、「ミュンヘン会談」の解説の一部です。
「チェンバレンの介入」を含む「ミュンヘン会談」の記事については、「ミュンヘン会談」の概要を参照ください。
- チェンバレンの介入のページへのリンク