チェンバレンの保護貿易論への反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 01:02 UTC 版)
「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「チェンバレンの保護貿易論への反対」の解説
ボーア戦争後の財政赤字の中で、植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは大英帝国内自由貿易を推進しつつ、帝国外に対しては関税を再導入する「関税改革」を行うべきと主張するようになった。しかし自由貿易主義者の閣僚から強い反対を受け、閣内では支持を得られそうにないと判断したチェンバレンは、1903年9月に閣僚職を辞した。その後、演説で保護貿易の世論を喚起することを狙って工業都市各地の遊説を開始した。 自由貿易主義の政党である自由党はチェンバレンの保護貿易主義に強く反発し、アスキスもチェンバレンが演説した場所を追跡して遊説し、チェンバレンの保護貿易論を徹底的に批判した。アスキスは「チェンバレンは第一に国内貿易を完全に無視しており、第二にイギリスの輸出額をもって貿易額を推定し、貿易外勘定を入れていない」と主張した。 この一連のアスキスの遊説は国民の支持を集めた。一般の国民はパンの値上がりを警戒して保護貿易主義を嫌っていたためである。アスキスが後に自由党党首となりえた声望はこの遊説によって獲得されたと言われる。 1905年11月に開催された保守党立憲協会全国連盟(英語版)のニューカッスル大会ではチェンバレン派が主導権を握って保護貿易主義の決議を採択させたことでバルフォア首相とチェンバレンの関係は緊張し、保守統一党政権は分裂の一歩手前にまで陥った。 一方、自由党も党首キャンベル=バナマンが1905年11月23日のスターリングでの演説においてアイルランド自治法案に前向きな発言をしたことをローズベリー伯爵が批判していた。これを見た首相バルフォアは今辞職すれば政治の焦点を関税問題からアイルランド問題に移し、自由党を分裂させられると踏んで1905年12月4日に内閣総辞職した。 しかしチェンバレンとの対決姿勢を明確にしないローズベリー伯爵は、アスキスら自由帝国主義派からも離反されつつあり、自由帝国主義派と急進派は自由貿易を共通点にして結びつきを強めていた。そのためローズベリー伯爵に続く者はなく、自由党が分裂することはなかった。
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