チェコ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:37 UTC 版)
「第二次世界大戦の背景」の記事における「チェコ問題」の解説
ヒトラーは、チェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定めた。ズデーデン地方はドイツ系住民が多く居住していた。当時、その数は310万人とされている。なぜズデーテン地方がチェコ領になっている理由は以下の通りである。 1918年10月28日にドイツ内のチェコスロバキア独立派のエドヴァルド・ベネシュはチェコスロバキアの独立を宣言した。それに対し現地の在住のドイツ人は翌10月29日にドイツ人帝国議会議員が中心として、エーガラントと北ボヘミアに「ドイツ系ボヘミア州(ドイツ語版、チェコ語版、英語版)」の成立を宣言したものの、チェコ軍団が侵攻を開始し、ドイツ系ボヘミア州政府はドイツへ亡命した。こののちに開かれたパリ講和会議ではアメリカ合衆国は民族自決の概念からドイツへの編入を要望し、オーストリアはチェコへの編入に強く反対していた。しかしフランスの要求が通り、ドイツ系ボヘミア州はチェコスロバキアの領土となることが確定した。この一連のチェコスロバキア政府の行動にヒトラーは納得がいかなかった。そこで英仏との間でヒトラーは強引ともいえる要求と、戦争を避けようとする宥和政策との間で駆け引きが続けられた。1938年9月に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協した。こうしてチェコスロバキア政府の意向は英仏独によって完全に無視され、チェコスロバキアは解体され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とした。この一連の行動で、ハンガリー及びポーランドも領土を獲得した。
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