サンドラ・リヴェット
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「ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)」の記事における「サンドラ・リヴェット」の解説
サンドラ・エリナー・リヴェット(英: Sandra Eleanor Rivett)は、1945年9月16日に、アルバートとユーニスのヘンズビー夫妻の第3子として生まれた。家族は彼女が2歳の時にオーストラリアに移住し、1955年に帰国した。彼女は人気者で、学校では「学業に秀でているわけではないかが、利発な子」(英: "intelligent, although she does not excel academically")と評された。彼女は美容師見習いとして6ヶ月働いた後、クロイドンで秘書として働き始めた。恋破れた後、彼女はレッドヒル (サリー)(英語版)近くの精神科病院でうつ病の治療を受けつつ「ボランタリー・ペイシェント」(英: voluntary patient)となった。その後ジョンという建築業者と婚約し、クロイドンの医者のためにナニーとして働き始める。1964年3月13日、彼女はスティーヴン (Stephen) という男児を産むが、ジョンとの関係は破綻し、彼女は実家に戻って息子を養子に出そうと考える。彼女の両親が責任を取り、1965年5月にその子を引き取ることになった。彼女は高齢者ホームで働き、その後ポーツマスに移って姉と暮らした。彼女はここでロジャー・リヴェット(英: Roger Rivett)と出会い、1967年6月10日にクロイドンで結婚した。ロジャーはイギリス海軍の有能な船員で、後に国有貨物輸送公社(英語版)(英: British Road Services)の荷運び人となり、一方のサンドラはパーリー(英語版)のリーダム孤児院(英: Reedham Orphanage)でパートタイム勤務を始めた。1973年夏、ロジャーはエッソのタンカーでの職を得て数ヶ月勤務し、その後ケンリー(英語版)のフラットに戻ったが、その間にサンドラはクロイドンの煙草会社での職を得ていた。婚姻関係はロジャー不在時のサンドラの行動に疑いがあったことから1974年5月に破綻し、ロジャーは両親と暮らすため実家に戻った。その後彼女はベルグレイヴィアの家事代行業者に登録し、この地区の高齢カップルのケアを担当した。数週間後、彼女はルーカン家で働き始めた。 サンドラ・リヴェットは毎週木曜の夜にボーイフレンドのジョン・ハンキンズ(英: John Hankins)と一緒に過ごす習慣だったが、その週は非番の日を変更したため、彼と外出したのは水曜日だった。2人が最後に通話したのは11月7日木曜日の20時だった。下の子たちを寝かしつけた後、彼女は20時55分頃にヴェロニカから紅茶を1杯頼まれ、地下室にあるキッチンに向かった。部屋に入ったところで、彼女は包帯が巻かれた鉛管で殴りつけられ殺された。犯人は彼女の遺体を、帆布地の郵便袋に入れた。その時、ナニーが遅いことを心配し、ヴェロニカが様子を見に降りてきた。彼女は地下室に繋がる階段の最上段からリヴェットを呼んだが、その後自身も襲撃された。大声で命乞いした彼女に対し、襲撃者は「黙れ」(英: "shut up")と言った。後にヴェロニカは、すぐにこれが夫の声だと分かったと述べている。2人は揉み合いになり、ヴェロニカが指に噛みつくと、相手は彼女を押し倒して顔を絨毯に押しつけたが、必死に振り返って睾丸を絞り上げたため、ルーカンは喉に回した手を離して降参した。彼女がリヴェットはどこか聞くと、ルーカンは当初はぐらかしたが、やがて彼女を殺したことを認めた。怯えたヴェロニカは、自分の怪我が治るまで数日間家にいてくれるなら、彼が逃げるのを助けられると伝えた。ルーカンは階段を上って娘を寝かしつけ、それから寝室の1つに向かった。ヴェロニカが寝ようとしてその部屋に入った時、彼は寝具が血で汚れないようにタオルを敷いてくれと彼女に言った。ルーカンはバルビツレートが無いか彼女に尋ね、濡れたタオルを取りにバスルームへ向かったが、これはヴェロニカの顔を拭くためだったと考えられている。ヴェロニカはバスルームからは自分の動きが分からないと知っており、外へ駆け出して近所のパブ、プランバーズ・アームズ(英語版)に逃げ込んだ。 ルーカンは22時から22時半頃、チェスター・スクエアにあるマデレイン・フロアマンの家に立ち寄ったと考えられている(フロアマンはフランシスの学友の母だった)。家で一人きりだったフロアマンは扉の物音に気付かなかったが、直後に支離滅裂な電話を受け、電話を切った。この家の戸口の上り段からは、後に行われた法科学的調査で、A・B型の血液が混ざった血痕が見つかっている。ルーカンが22時半から23時にかけて母に電話を掛けたことは確実で、この通話で彼はロウワー・ベルグレイヴ・ストリート(ヴェロニカらが住んでいたフラット)から子どもたちを引き取っておくよう母に頼んでいる。ルーカンの母によれば、彼は妻の家で「おぞましい悲劇」(英: "terrible catastrophe")があったと話した。また家の前を車で通り過ぎた時、ヴェロニカが地下室で男と闘っていたのを目撃したとも話した。彼はフラットに踏み込み、彼女が叫んでいるのを見たと喋った。ルーカンがこの通話をどこから掛けていたのか、またフロアマン宅への不審電話の発信元も、未だに特定されていない。警察はロウワー・ベルグレイヴ・ストリートのヴェロニカ宅に踏み込んでサンドラ・リヴェットを見つけ、その後ヴェロニカは救急車で聖ジョージ病院(英語版)へ搬送された。ルーカンはフォード・コルセアを42マイル (68 km)運転し、イースト・サセックス・アクフィールド(英語版)にある友人のマクスウェル=スコット宅へ向かった。スーザン・マクスウェル=スコット(英: Susan Maxwell-Scott)がルーカンを出迎えたが、これがルーカンの確かな目撃証言として最後のものである。
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