グロリア・アロヨとは? わかりやすく解説

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グロリア・アロヨ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/26 06:46 UTC 版)

グロリア・アロヨ
Gloria Arroyo

ダボス会議にて(2007年1月26日)

フィリピン共和国
第25代下院議長
任期 2018年7月23日 – 2019年6月30日
大統領 ロドリゴ・ドゥテルテ

フィリピン共和国
下院議員
任期 2010年6月30日 – 2019年6月30日
大統領 ベニグノ・アキノ3世
ロドリゴ・ドゥテルテ

任期 2001年1月20日2010年6月30日
副大統領 テオフィスト・ギンゴナ(2001年1月 – 2004年6月)
ノリ・デ・カストロ(2004年6月 – 2010年6月)

フィリピン共和国
第10代副大統領
任期 1998年6月30日 – 2001年1月20日
大統領 ジョセフ・エストラーダ

フィリピン共和国
上院議員
任期 1992年6月30日 – 1998年6月30日
大統領 フィデル・ラモス

出生 (1947-04-05) 1947年4月5日(77歳)
フィリピン リサール州サンファン
政党 ラカス党
受賞 経済学博士(フィリピン大学)
出身校 ジョージタウン大学
アサンプション大学サンロレンツォ校
アテネオデマニラ大学
フィリピン大学経済学部(博士課程修了)
配偶者 ホセ・ミゲル・アロヨ
子女 3人
署名

グロリア・マカレイグ・マカパガル=アロヨ英語: María Gloria Macaraeg Macapagal-Arroyo、マリア・グロリア・マカラエグ・マカパガル=アロヨ、1947年4月5日 - )は、フィリピンの政治家。同国第14代大統領(在任:2001年1月20日2010年6月30日)。通称は名前の頭を取ってGMAと呼ばれる。

人物

1947年4月5日にリサール州サンファンにて、ディオスダド・マカパガル元大統領の娘として誕生した。地元の高校を卒業した後、2年間アメリカジョージタウン大学に留学し、ビル・クリントン大統領と同期生だった。その後帰国してフィリピン大学から経済学博士学位を取得し、大学教員からアキノ大統領に抜擢されて貿易工業省局長に就任した。

さらに同省次官を経て、1992年5月に史上最高得票で上院議員に当選した。

大統領

アメリカ海兵隊員と(2006年2月22日)

1998年5月にホセ・デヴェネシア大統領候補の副大統領として立候補したが、フィリピンの大統領選挙は正副大統領の選挙が別に行われるため、デヴェネシア候補は落選し、アロヨは副大統領として当選した。同年6月に副大統領に就任し、2001年1月20日にエストラーダ大統領に対する弾劾が成立すると大統領に昇格した。これに対してエストラーダ派からアロヨ大統領の正当性を疑問視する声が高まり、最高裁判所の判決が下りているにもかかわらずデモ暴動反乱が発生した。同年11月にイスラム教徒ミンダナオ自治地域(ARMM)での選挙で、モロ民族解放戦線(MNLF)のヌル・ミスアリ議長と対立関係にあったパロウク・フシン副議長を支援した。

アロヨは当初1期で退任する意向であったが、思い直して2004年フィリピン大統領選挙に再度立候補し、次点候補に100万票以上の差を付けて当選した。しかし、公金を選挙資金に流用した疑惑が浮上して対立候補と揉めたが、2004年6月24日に議会によって当選を認められ、同月30日にセブ島で大統領就任式が執行された。

2003年3月に始まったイラク戦争に際しては、フランスドイツロシア中国が反対した中で数少ない支持者となった。

2009年12月4日にミンダナオ島マギンダナオ州戒厳令を布告し、大量殺人に関与した州知事一族の身柄を拘束させた[1]

下院議員

2010年5月10日に長男のマイキー・アロヨ下院議員からパンパンカ州第2区を選挙区として譲り受け、下院議員選挙に立候補して当選した。2011年11月18日に2007年の上院議員選挙に絡んだ選挙法違反容疑で逮捕された。大統領経験者が逮捕されるのはジョセフ・エストラーダ元大統領以来である。

2012年10月4日に公金の不正流用の疑いで警察に再逮捕された[2]。同月12日にマニラ退役軍人病院は、入院しているアロヨが集中治療態勢に置いたことを発表した。これによって15日の裁判所の出廷は難しい状況になった[3]

2018年7月23日に第21代下院議長に就任し、2019年6月30日まで務めた。女性として初めての議長となる[4]

家族

夫のホセ・ミゲル・アロヨ

1968年8月にホセ・ミゲル・アロヨ(Jose Miguel Arroyo)と結婚し、3人の子女が誕生した。

脚注

関連項目

外部リンク

ウィキニュースに関連記事があります。フィリピン・アロヨ大統領 弾劾成立の見込み薄し

先代
ジョセフ・エストラーダ
フィリピン共和国大統領
第14代:2001年1月20日 – 2010年6月30日
次代
ベニグノ・アキノ3世
先代
ジョセフ・エストラーダ
フィリピン共和国副大統領
第10代:1998年6月30日 – 2001年1月20日
次代
ノリ・デ・カストロ
先代
パンタレオン・アルバレス
フィリピン共和国下院議長
第25代:2018年7月23日 – 2019年6月30日
次代
アラン・ピーター・カエターノ

グロリア・アロヨ(2001–10)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:02 UTC 版)

モロ紛争」の記事における「グロリア・アロヨ(200110)」の解説

2001年5月27日には、アブ・サヤフパラワン島の高級リゾートから20人の人質取った人質の内4人は逃げ出すことができた。40人の犯罪者構成される誘拐グループその後バシラン州のラミタンの町にあるホセ・トーレス記念病院聖ペテロ教会施設制圧し200人を人質にしたと主張したが、スタッフ患者を含む病院内にいた20人が人質になったことが確認された。 病院占拠続いて、ラミタンで陸軍アブ・サヤフ反政府勢力の間で銃撃戦があり、陸軍大尉を含む12人の兵士死亡した人質救出するために最大22人の兵士殺害されたと伝えられている。 ラミタンでの戦闘中にさらに5人の人質逃げることができたが、ラミタン包囲前に斬首された1人含めて2人人質殺害された。その後アブ・サヤフ一連の襲撃行い、その襲撃地点一つココナッツ農園では反政府グループがボロナイフで二人の男の頭をたたき切った農園オーナー警備員人質取られ反乱グループはラミタンでの戦闘1週間後礼拝堂を含む2つ建物焼き払った2001年8月2日バシラン州ラミタンにあるBarangay Baloboが新たに襲撃された。3日後、フィリピン陸軍過激派隠れ家急襲し多数人質救出した。そこでは11人の斬首体が発見された。他の人質解放されたか、逃走していた。 2001年6月13日にバスランでGuillermo Soberoを含む3人以上斬首されていたのが発見されたとして人質の数は約28人と推定された。彼らはフィリピン陸軍救出作戦停止しなかったため、斬首された。 2001年10月逃走した3人の人質によれば、Burnhamsは依然として人質にされている14人のグループにいた。2002年6月7日人質1年捕虜になった後、救出任務が行われ、Martin Burnham看護師のEdiborah Yap十字砲火巻き込まれ死亡したMartinは胸に3発の銃弾浴びて死亡しGracia Burnham右足負傷した。この時までにヌル・ミスアリ2001年11月ARMMでの選挙開催を防ぐために政府標的攻撃するよう支持者命じ地域知事として彼の退場もたらしたミスアリ2007年マレーシア逮捕され裁判のためフィリピン強制送還された。 2004年7月Gracia Burnhamは8人のアブ・サヤフメンバーの裁判証言し、Alhamzer Limbong、Abdul Azan Diamla、Abu Khari Moctar、Bas Ishmael、Alzen Jandul、Dazid Baizeの6人の容疑者が彼女を人質取った犯人であると確認した14人のアブ・サヤフメンバーが終身刑宣告され、4人が無罪になった。Alhamzer Limbongは後の刑務所蜂起殺害された。 これらの反乱グループ、特にアブ・サヤフはいくつかのテロ攻撃、すなわち2002年10月のザンボアンガ爆破事件2004年2月スーパーフェリー14爆破事件2006年10月中央ミンダナオでの同時爆破事件2007年7月フィリピン海兵隊員数人の斬首2007年11月のバタサンパンバンサ爆破事件2009年ミンダナオ島爆破事件などのいくつかのテロ攻撃実行してきた。 ウンブラ・カトの指揮下にある1000人のMILF反政府勢力が、北コタバト州35支配権握った8月9日ヘリコプター大砲と共に2000人のフィリピン軍制圧され地域派遣され反政府勢力から解放された。MILFは北コタバトイスラム教徒ミンダナオ自治区含めることを望んでおり、政府とMILFはミンダナオ自治区に州を含めることを交渉していたが、最高裁判所はこの地域地元キリスト教指導者からの懸念聞いた後、提案無効にしていた。 反乱勢力は彼らの指揮官からこの地域を去るように命じられたが、カト配下の部隊占領していたを去ることを拒否し代わりに塹壕掘ったフィリピン陸軍8月9日砲撃行った翌日政府軍奪還するために移動し反政府勢力から2つ取り戻した2009年6月14日衝突10人の反政府勢力殺害されるなどフィリピン陸軍反政府勢力グループの間で多数衝突発生した2002年から2015年の間にフィリピンアメリカ合衆国は「フィリピンにおける不朽の自由作戦」として知られるイスラム過激派によるテロ対す共同軍事作戦行っていた。これは対テロ戦争一部である。

※この「グロリア・アロヨ(2001–10)」の解説は、「モロ紛争」の解説の一部です。
「グロリア・アロヨ(2001–10)」を含む「モロ紛争」の記事については、「モロ紛争」の概要を参照ください。

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