グロリア・アロヨ政権(2001年-2010年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:54 UTC 版)
「フィリピンの歴史 (1986年-現在)」の記事における「グロリア・アロヨ政権(2001年-2010年)」の解説
詳細は「グロリア・アロヨの大統領時代(英語版)」を参照 副大統領グロリア・アロヨ(故ディオスダド・マカパガル大統領の娘)はエストラーダが離任した日に後継者として就任した。エストラーダは後に辞任していないと主張してアロヨ政権の正当性を争ったが、最高裁判所は2度アロヨ政権の正当性を確認した。エストラーダが2001年4月に汚職容疑で逮捕されると、支持者数千人がアロヨ政権を打倒しようと第3次エドゥサ革命(英語版)を企てたが、デモが暴力行為に転じると計画は失敗した。アロヨの大統領就任は、アロヨの政治連合が圧倒的な勝利を収めた2001年5月の中間選挙と地方選挙で更に正当性を示した。 アロヨの当初の任期は、1か月に及ぶ全国規模の反乱宣言に繋がる2003年7月のマニラの軍事反乱(英語版)同様に手に負えない連合政治により特徴付けられた。不和を和らげる必要性を語って2004年5月の大統領選挙には出馬しないと2002年12月に宣言したが、2003年10月に前言を翻し、出馬を決めた。再選され、2004年6月30日に大統領として6年の任期に就いた。 2005年、勝利の票差が擁護可能か選挙管理当局に尋ねる明らかにアロヨの声の特徴を残した盗聴された会話のテープが明らかとなった。テープはアロヨの辞任を求めるデモを引き起こした。アロヨは選挙管理当局に不適当に語ったことを認めたが、詐欺行為の申し立てを否定し、辞任を拒否した。大統領を弾劾する計画は、この年その後失敗した。 任期の終わりに向けてアロヨは現行の両院制の単一で大統領制の共和制を一院制の連邦議院内閣制政府に移行する憲法の整備のための異論の多い計画の先頭に立った。
※この「グロリア・アロヨ政権(2001年-2010年)」の解説は、「フィリピンの歴史 (1986年-現在)」の解説の一部です。
「グロリア・アロヨ政権(2001年-2010年)」を含む「フィリピンの歴史 (1986年-現在)」の記事については、「フィリピンの歴史 (1986年-現在)」の概要を参照ください。
- グロリア・アロヨ政権のページへのリンク