キャノン・グループ
(キャノン・フィルムズ から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/26 00:01 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2015年8月)
|
種類 | 消滅 |
---|---|
設立 | 1967年10月23日 |
事業内容 | 映画製作、ビデオ配給、シネマ・チェーン(![]() ![]() ![]() |
代表者 | デニス・フリードランド(1967–1979) クリストファー・C・デューイ(1967–1979) メナヘム・ゴーラン(1979–1989) ヨーラム・グローバス(1979–1994) ジャンカルロ・パレッティ(1989–1990) オビディオ・G・アソニティス(1989–1994) クリストファー・ピアース(1990–1994) |
主要子会社 | キャノン・ビデオ キャノン・シネマズ ソーンEMIスクリーン・エンタテインメント HBO/キャノン・ビデオ ABCシネマズ |
関係する人物 | チャールズ・ブロンソン チャック・ノリス ジャン=クロード・ヴァン・ダム ドルフ・ラングレン シルヴェスター・スタローン |
特記事項:1994年に倒産しMGMに統合される |
キャノン・グループ(The Cannon Group, Inc.)は、かつて存在したアメリカの企業グループ。グループ内には、個性的な中低予算映画の製作で知られたキャノン・フィルムズ(Cannon Films)、大規模な国際的映画館チェーン(Cannon Cinemas)、国際市場に多額の投資を行ったキャノン・ビデオ(Cannon Video)を含んだ。キャノン・フィルムズ作品はアメリカ本国は元よりイギリスでの人気が非常に高く、イギリスにも直営の映画館チェーンを所有していた。
歴史
1967–1979: 始まり
キャノン・フィルムズは、1967年10月23日にデニス・フリードランドとクリス・デューイが設立した。
スウェーデン製のソフトポルノ映画『早熟』『女の歓び』の英語版製作のほか、ピーター・ボイル主演の『ジョー』等で成功を収めるが、その後は不作が続き株価も下落していく[1]。
1979–1985: ゴーラン・グローバス時代
1979年、深刻な財政難にあったフリードランドとデューイによるキャノンを、$500,000でイスラエル人の映画製作者メナハム・ゴーランとヨーラン・グローバス従兄弟が買収する。
1980年代のキャノンは、当時、B級映画に飢えていた市場を捉えた『狼よさらば』の続編“Death Wish series” や『地獄のコマンド』、『デルタ・フォース』などのチャック・ノリスのアクション映画で最も記憶されている。キャノン最大のヒット作の一つに、チャック・ノリスのベトナム戦争アクション『地獄のヒーロー』がある、映画は『ランボー』シリーズとのイミテーション論争を巻き起こした。また、自警団員スリラー『エクスタミネーター2』(『エクスタミネーター』(1980年)の続編)があり、さらには『ブレイクダンス』、『ブレイクダンス2/ブーガルビートでT.K.O!』のようなミュージカル・コメディ映画によりキャノンは実は遥かに変化に富んだ作品群を輩出していた。
それは『グローイング・アップ/ラスト・バージン』と『アップル』の米国リリース。『チャタレイ夫人の恋人』、『ボレロ/愛欲の日々』や『魔性の女スパイ』(1985)などのコスチュームプレイ・ドラマ。『超人ヘラクレス』、『スペースバンパイア』と『グレート・バーバリアン』のようなSFやファンタジー映画。
其らだけではなく、ジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』、フランコ・ゼフィレッリの『オテロ』(ジュゼッペ・ヴェルディのオペラの映画化)、アンドレイ・コンチャロフスキーの『暴走機関車』や『或る人々』、ノーマン・メイラーの『タフガイは踊らない』等のシリアスな文芸映画。
そして3D映画“Treasure of the Four Crowns” 、『ロマンシング・アドベンチャー/キング・ソロモンの秘宝』、『コブラ』や『アメリカン忍者』のようなアクション/アドベンチャー映画。
これらの年の間キャノンは、毎年、カンヌ国際映画祭にて、派手なビルボードやコンセプト・ポスターのみによる強引な映画セールスを展開した。翌年の公開ラインナップを発表し映画の完成前にプリセールスを完了する。そしてそのプリセールスによる売り上げで逆に映画を製作するという手法である。このような強い広告力は、ゴーランとダニー・ディムボートのセールス・スキルによるものであり、それは十分な製作資金を生み出した。プレセール総額の集金が完了するまでの間は、オランダのスレーブブルク銀行がつなぎ融資を担った。
1986–1989: 後年
1986年にキャノンはピークを迎え、1年間に43本の映画を製作するまでに至った[2]。
同年に配給した映画の芸術的評価も高く、『追想のかなた』はアカデミー外国語映画賞とゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞し、『オテロ』は英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞の外国語映画賞にノミネートされた。
その他、キャノン・ムービー・テールズ(Cannon Movie Tales)シリーズという童話の実写化シリーズも製作した。
キャノン映画が批評家から酷評される事に心を痛めていたゴーランはやがてアート・ムービーにも着手するようになり、『ゴダールのリア王』を製作する[3]が興行的には失敗に終わる。
更に『スーパーマンIV』『オーバー・ザ・トップ』『マスターズ/超空の覇者』などの大作が立て続けに失敗し、経営が大幅に落ち込むことになる。
スパイダーマン
キャノンはスパイダーマンの映画化権を所有しており、1980年代半ばにスパイダーマン映画の製作を計画していた。ゴーランとグローバスは、22万5千ドルをかけて、マーベルから『スパイダーマン』の映画化権を5年間ライセンスした[4]。だが、結局映画が制作されることはなく、権利はマーベルに戻った。
英国のパテの所有権
破綻寸前のキャノンは、ジャンカルロ・パレッティが経営するパテに買収された。
1989年になると、ゴーランはパレッティやグローバスとの不和を理由に職を辞し、キャノンを離れ、21世紀フィルム・コーポレーションを設立した。
1990–1994: リニューアルと終焉
1990年にパテがMGMとパテの合併の一環としてメトロ・ゴールドウィン・メイヤーを支配下に置くと、キャノン・フィルムズのライブラリーの大部分はMGMライブラリーの一部となった。
パレッティはスタジオ購入時に負った債務を履行せず経営権を失うことになった。また、融資元のクレディ・リヨネがパレッティの解任を正当化するために1991年に起こした民事訴訟に於いて、虚偽の証言をしたことによりパレッティは偽証罪及び証拠改ざん罪で有罪判決を受けた。
キャノンの制作した最後の映画は『チャック・ノリス in ヘルバウンド/地獄のヒーロー5』。1994年にキャノンは倒産した。
その後
2014年にはメナヘム・ゴーランとヨーラム・グローバスを描いた『キャノンフィルムズ爆走風雲録』というドキュメンタリー作品が公開された。
キャノン・グループ・ライブラリーの所有権
MGMホーム・エンターテイメントは、現在キャノン映画のライブラリーのほとんどを所有している会社である。
ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメントは、親会社であるワーナー・ブラザース・ピクチャーズが、現在キャノンの1991年以降の作品と、キャノンが製作し、ワーナーが配給したタイトルを所有している。また、ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメントは、MGM/FOXのホームメディア契約が6月30日に終了した結果、2020年7月1日からMGMホーム・エンターテイメントからのライセンスを受けて新たに配給会社となり、ワーナーがキャノン映画の全ライブラリーを(MGMと共に)世界中のホームメディアで配信できるようになっている。
キャノン・ライブラリーの大半のテレビ放映権を保有するのはパラマウント・ピクチャーズ。
キャノン・グループ・フィルムのリスト
参考
- ^ Stark (2022年8月15日). “HOLLYWOOD HISTORY: The Rise And Fall Of Cannon” (英語). The Last Movie Outpost. 2022年11月3日閲覧。
- ^ John, Uncle (2015年5月7日). “Cannon Films: The Craziest Studio in Hollywood History” (英語). Portable Press. 2022年11月3日閲覧。
- ^ “『メナヘム・ゴーランとヨーラム・グローバスの「キャノンフィルムズ」 | nobodymag”. www.nobodymag.com. 2022年11月3日閲覧。
- ^ “The Marvel Superhero Movies That Never Were: The Mid 80s SPIDER-MAN: THE MOVIE - Warped Factor - Words in the Key of Geek.”. www.warpedfactor.com. 2022年11月3日閲覧。
外部リンク
キャノン・フィルムズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:43 UTC 版)
「スパイダーマンの映画作品」の記事における「キャノン・フィルムズ」の解説
1985年、ロジャー・コーマンが持っていた『スパイダーマン』の短期間の契約オプションが切れると、マーベル・コミックはキャノン・フィルムズと契約を交わした。キャノンの社長のメナヘム・ゴーランと彼の従兄弟のヨーラム・グローバスはマーベルコミックに5年間で22万5000ドルと映画の収益の一部を支払うことで合意した。1990年4月までに映画が製作されない場合、権利はマーベルに戻ることになっていた。 まず『スペースインベーダー』と『悪魔のいけにえ2』を制作準備中であったトビー・フーパーへ監督の話が持ちかけられた。ゴーランとグローバスはキャラクターのコンセプトを勘違いしており(ジョセフ・ジトー(英語版)によると「彼らは狼男のようなものだと思い込んでいた」)、その勘違いを反映した草案をレスリー・スティーヴンス(英語版)が執筆した。スティーヴンスのストーリーは、企業の科学者が写真家のピーター・パーカーに故意に放射線を浴びせ、毛むくじゃらで腕が8本あるタランチュラ人間となる内容であった。 マーベルのスタン・リーはコミックからの設定変更に不満を持ち、新しい脚本をテッド・ニューサム(英語版)とジョン・ブランカトー(英語版)が執筆した。この脚本ではピーター・パーカーは大学生で、オットー・オクタビアスがその先生である。だがサイクロトロンの事故によりスパイダーマンが「作り」出され、またオクタビアスもドクター・オクトパスとなり、第5の力を証明しようと狂気を起こしてしまう。オクトパスはサイクロトロンを再起動し、電磁異常、反重力の影響、ニューヨークと世界をのみ込む恐れがあるバイロケーションを引き起こそうとする。監督はトビー・フーパーに代わり、キャノンの映画『地獄のコマンド』を成功させたジョセフ・ジトーが務めることとなった。ジトーは脚本書き直しのためにバーニー・コーエンを雇った。コーエンはアクションシーンを追加し、オクトパスには「Okey-dokey」というキャッチフレーズを与え、彼の目的を第5の力から反重力の研究に変更した。プロデューサーのゴーランも「ジョセフ・グッドマン」名義でコーエンが書き直した脚本に小さな要素を加えた。ジトーはアメリカ合衆国とヨーロッパの両方でロケ地とスタジオを探し、ハーパー・ゴフによりストーリーボードが監修された。キャノンは当時としてはかなり高額となる1500万ドルから2000万ドルの製作費を予定した。 キャスティングは確定していなかったが、ジトーは俳優でスタントマンでもあるスコット・レヴァ(英語版)に興味を示し、キャノンに彼を使ってプロモーション写真や広告を作った。また当時新規精鋭俳優だったトム・クルーズも主役に興味を示していた。ジトーはまたドクター・オクトパス役にはボブ・ホスキンスを検討した。さらにスタン・リーは『デイリー・ビューグル(英語版)』編集長のJ・ジョナ・ジェイムソンを自ら演じたいことを明かした。他にローレン・バコールとキャサリン・ヘプバーンがメイおばさん(英語版)役、ピーター・カッシングがシンビオートの研究者役、アドルフ・シーザーが刑事役に検討されていた 。キャノンは 『スーパーマンIV』と『マスターズ/超空の覇者』の製作費高騰に伴い、『スパイダーマン』の製作費を1000万ドル以下まで減らす提案をした。ジトーは危うくなった『スパイダーマン』を作る気がなくなり、監督を降板した。会社側は低予算でできる脚本に書き直させるためにシェパード・ゴールドマン、ドン・マイケル・ポール、イーサン・ワイリーに依頼し、またアルバート・ピュンも協力した。 スコット・レヴァもキャラクターに関与を続けており、各草案を読んでいた。レヴァは「テッド・ニューサムとジョン・ブランカトーが脚本を書いていた。それは良かったが、もっと小さな作品にする必要があった。残念ながら他の脚本家が書き直すごとにどんどん悪くなっていった」とコメントした。その後キャノンは経営が悪化し、既に150万ドルを費やしていたプロジェクトは中止された。1989年、当時イタリア人投資家のジャンカルロ・パレッティ(英語版)が経営していたパテによりキャノンは買収された。グローバスはパテとも関係を持ち続けたが、ゴーランは去って、『スパイダーマン』を含むいくつかの権利を手にして21世紀フィルム・コーポレーション(英語版)を立ち上げた。彼はまた、マーベルとの『スパイダーマン』のオプションを1992年1月まで延長した。 ゴーランは低予算用に書き直した脚本を棚上げとし、当初予定されていた大型予算用の脚本、ストーリーボードを使って資金を調達しようとした。1989年5月のカンヌで21世紀フィルムは9月製作開始を発表し、「バーニー・コーエンとテッド・ニューサムとジョン・ブランカトーとジョセフ・グッドマン」による脚本を売り込んだ。ゴーランはこのプリセールスにより、バイアコムにテレビ放送権、 コロンビア ピクチャーズにビデオ販売権を売って資金を集めた。この時点でスティーヴン・ヘレクが監督する話が浮上していた。ゴーランは1989年後半に「新しい」脚本(実際には1985年に書かれていたものだが日付を「1989年」と修正した)をコロンビア映画に提出し、そしてスタジオ側はさらなる書き直しを要求した。ゴーランはフランク・ラロッジアを雇い、その草案を提出したが、彼は21世紀フィルムズに幻滅した。さらにニール・ラッテンバーグが雇われてもう一つの草案を書き、それはコロンビア側のスクリプト・リーダーによって「カバー」された。コロンビアの脚本アナリストは提出された3本を「全て同じストーリー」とみなした。スタジオは仮の製作契約を結んだ。1990年、スタン・リーは「コロンビアは最後には21世紀フィルムから『スパイダーマン』を買ってしまうかもしれない」と述べた。
※この「キャノン・フィルムズ」の解説は、「スパイダーマンの映画作品」の解説の一部です。
「キャノン・フィルムズ」を含む「スパイダーマンの映画作品」の記事については、「スパイダーマンの映画作品」の概要を参照ください。
- キャノン・フィルムズのページへのリンク