キャッシュ・バレーでの軍事行動
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「ベア川の虐殺」の記事における「キャッシュ・バレーでの軍事行動」の解説
この頃には、ダグラス砦に駐屯する兵士達は役に立たなくなっていた。兵士間の規律のたるみに加え、小さな「反乱」もあり、カリフォルニア志願兵の大半による合同請願では、彼らの給与の中から3万ドル以上を積み立てて東部州に向かう旅費に充るべきだとし、「セージの茂みで焚き火を囲んで凍死したり糧食を費やすより、南北戦争で裏切り者を撃って国のために尽くすために使うべきだ。ポトマック川に行って撃たれるという『栄誉』のためならこの金を喜んで遣う」と言っていた。この要請は陸軍省が辞退した。 1863年1月の大半、ダグラス砦の兵士達は北のショーショーニー族に対する長期遠征のための準備をした。コナーは到着したときにショーショーニー族を急襲できるよう、その遠征を秘密にして置くことも欲した。このために、部隊を2つの分遣隊に分け、キャッシュ・バレーまで行く間に定期的に落ち合うこととした。コナーの狙いは、マクギャリーが先の遠征で直面したように、ショーショーニー族がアメリカ軍の到着する前に移動したり分散したりさせないことだった。 この軍事作戦に対する反応は様々だった。ジョージ・A・スミスは、公式の「末日聖徒イエス・キリスト教会の歴史」の中で次のように書いた。 コナー大佐はワシントン準州の金鉱に至る道で、移住者を殺してきたインディアンを絶滅させる決心をした。数日の間に北へ向かって小さな分遣隊が出発していった。もしこの遠征が以前と同じ事を繰り返すならば、友好的なインディアンまで捕まえて殺し、罪有る悪党はその山岳の隠れ場に残ってしまう結果になる。 一方「デザート・ニューズ」はその論説で次のように述べた。 並みの幸運があれば志願兵隊は「彼等を掃討できる」だろう。この地域社会はそのような集団全てを除くことを望み、もしコナー大佐が、平和で法を守る市民の命を弄ぶろくでなし集団にたどり着くことに成功すれば、我々の義務を受けて喜ばしいことになるだろう。 ダグラス砦を最初に出発した部隊はサミュエル・W・ホイト大佐が指揮する約80名の歩兵中隊であり、15両の輜重車と2門の「山岳榴弾砲」を伴った。1863年1月22日に出発した。 第2の部隊はコナー大佐自らが率いる220名の騎兵であり、1月25日に出発した。この作戦固有の命令として、コナーは兵士のそれぞれに「40発のライフル銃弾と30発の拳銃弾」を持たせるよう命令した。この作戦全体では16,000発近い数になった。さらに榴弾砲には200発近い砲弾が準備された。偽装工作の一部として、騎兵は夜に行軍し、歩兵は日中に動いた。コナーには元連邦保安官でモルモン教徒の斥候、オーリン・ポーター・ロックウェルが付いた。 1月28日の夜、ホイト大尉の歩兵隊がフランクリン町近くに到着し、町の入植者達から食糧補給を受けようとしていたショーショーニー族3人を発見した。このショーショーニー族は3つの袋に9ブッシェル(300kg)の小麦を受け取っていた。ショーショーニー族を援助していた入植者、ウィリアム・ハルは後に次の様に言った。 我々は3頭の馬のうち2頭にそれぞれ3ブッシェルずつ乗せていた。...そのとき見上げると南から近付いてくるアメリカ軍兵士を認めた。私はインディアンの少年達に「あそこに『トクアシーズ』(ショーショーニー語でアメリカ兵)が来ている。お前達は皆殺されるぞ」と言った。彼等は「恐らくトクアシーズも殺される」と答えたが、3頭目の馬に荷を乗せるまで待たずに、馬に跳び乗り3頭の馬を連れて遠くに消えた。 これらショーショーニー族が持っていた小麦袋は、後に第3カリフォルニア志願兵隊が翌日の進軍中に発見したが、これは明らかにショーショーニー族が野営地に戻ろうとしている間に落として行ったものだった。 コナー大佐はその夜にホイトと出逢い、急襲を行うために翌朝午前1時に行軍を開始する命令を出したが、その地域の斥候として地元の入植者を雇おうとしたことで、実際には午前3時まで待つことになった。 この軍事行動はキャッシュ・バレーでも一年間で恐らく最も寒い時期に起こされた。地元の入植者達はユタの北部でも通常ではないほど寒かったと言い、攻撃が始まった29日の朝は氷点下30度だった可能性がある。何人かの兵士は凍傷や酷寒に起因する問題に罹り、第3志願兵連隊はダグラス砦を出たときのおよそ3分の2の勢力しかなかった。この作戦の間兵士達に配給された食料の中には水筒に入れたウィスキーもあり、数人の兵士はこのウィスキーが攻撃前の夜に凍っていたと証言した。
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