ガメラの美術・造形
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ガメラのデザインは、1964年に大映から独立したばかりの八木正夫と、同じく大映美術スタッフの井上章によるものである。井上は『ガメラ対大悪獣ギロン』までシリーズの美術を担当した。 井上は本作のガメラのデザイン画は50枚ほど描いたといい、そのなかには手足が無くムカデのようにはうガメラや、テントウムシのような水玉模様のガメラもあったという。結局は「画より立体のほうが分かりやすいだろう」ということで、美術監督の井上が粘土製の1尺雛型モデルを制作し、ここでOKが出た。監督の湯浅憲明によると、幾度にもわたる検討に、井上は最後はノイローゼ気味だったという。 ガメラの身長は当時、東京のビルの高さが33メートルに規制されていたので、縮尺を33分の1に設定し、ここから60メートルに決まった。湯浅監督は、ゴジラと差別化したガメラのキャラクター付けとして「動物らしさ」を強調し、四足歩行やアップの多用などの基本設定を考えた。劇中の東京タワーはガメラとの対比を考え、小さく作っている。 ガメラのぬいぐるみは、八木正夫によって製作された。八木によると、大映では怪獣の造形は初めてだったため、当初高山良策にガメラの製作依頼が持ち込まれたが、断られたために八木のもとに依頼が来たという。八木は当時日本テレビで仕事をしており、定時退社後にガメラの造形にかかった。ちょうど日本テレビは労働争議で騒然としており、テレビ部長は「こちらで処理するから当分来なくていいよ」と計らってくれ、このおかげでガメラ製作に専念できたという。 当初、八木は自宅の一室の畳を上げてガメラのぬいぐるみを制作していた。やがて、大映から完成を急かされて八木1人ではまかなえなくなったため、父親である東宝特殊美術課の八木勘寿に造形依頼を持ち込んだが、大映と東宝間の五社協定があるため、結局は八木の自宅の庭に造形用のプレハブ小屋を建て、そこで八木正夫が中心となって製作することとなった。当時は東宝特美課に在籍していた村瀬継蔵も八木勘寿に頼まれ、2人で定時退社後にこれを手伝った。 ガメラの甲羅の鱗は、村瀬によって東宝特美課での技術を応用し、ドンゴロス(麻布)を細かく切ったものを混ぜて補強したラテックスを石膏型で型抜きし、作られた。八木勘寿は当時病身であったが、作業場に布団を持ち込み、この甲羅の型抜きの指導をしている。村瀬は、甲羅を鱗状にしたことで、甲羅がよじれても歪みなどが目立たなくなったことを造形上の利点に挙げている。 ガメラの口の開閉ギミックや電飾は鈴木昶が行った。火を吐くギミックは、村瀬が豆腐屋で焼き豆腐を焼いている様子から発想して、ガスバーナーを仕込んだ。しかし、ガスバーナーでは火が遠くまで飛ばないため、ガソリンを噴出させる装置を別に制作し、ガスバーナーを種火にしてガソリンに着火する形となった。 ガメラは回転して飛ぶ設定のため、湯浅らは「ガメラをどう飛ばすか」と頭を抱えたといい、回転して飛ぶ際に甲羅がペコペコではよじれるから」と、甲羅の芯にジュラルミンが入れられた。このため、ぬいぐるみは異常に重くなり、灯台襲撃のシーンでは台車に載せて引っ張らなければ撮影できなかったという。撮影途中からは軽量化が図られて手直しされたが、胴体には鉄骨が組み込まれ、わざと手足が動かしにくいよう作られていたため、重さは60キログラムほどあったという。演技者は蓋のようになった甲羅を外し、中に入る仕組みだった。当初は甲羅の四隅をボルトで留める仕掛けだったが、危険なためにフックを使い、ボルト2個で留めるよう改良された。 円盤状になって空を飛ぶガメラは、3尺ほどのミニチュアが用意された。ミニチュアによる噴射火炎の色は、撮影時には赤色だった。このミニチュアは、点火して飛び上がるシーンでは毎回、噴射熱によりピアノ線が切れてしまった。築地は「もうちょっとというところでストーンと落ちる。本当にタイミングなんですよ。」と当時の苦労を語っている。ロングのカットではアニメーションが使用されたが、出来栄えと迫力から、これも湯浅の意見で次作からは遠近ともミニチュアを用いている。 ガメラ本体も、頭や手足の引っ込むものや遠景用のものなど、八木らによって大小さまざまなミニチュアが作られた。モーター仕込みで手足の動くミニチュアは、『対ジグラ』まで使われたという。
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