インド国民軍裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 23:59 UTC 版)
「en:Indian National Army trials」も参照 終戦後、イギリスは元インド国民軍将兵約20,000人を、イギリス国王に対する反逆罪で裁こうとした(11月5日の発表では起訴の対象は約400名)。しかし、この裁判を機にインド民衆の間に独立の気運が一気に高まった。次々とゼネストや暴動が起きる中、国民会議派も「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として即時釈放を要求、1946年2月には英印軍の水兵たちも反乱を起こし、ボンベイ、カラチ、カルカッタで数十隻の艦艇を占拠し「インド国民軍海軍」を名乗った。水兵たちは市民に混じって官憲と市街戦を展開、英印軍の将兵たちはイギリス人上官の発砲命令を拒否した。また、人々はイギリスの植民地政府による日本への戦勝記念日に弔旗を掲げて抗議の気持ちを表している。 これらインド国民軍将兵の裁判によって起こった一連の事件はインドが独立を勝ち取る大きなきっかけとなった。インド独立の過程については、ガンディーやジャワハルラール・ネルーに代表されるインド国内における大衆運動が有名だが、チャンドラ・ボースやビハーリー・ボース、A.M.ナイルらインド国民軍とその関係者が独立に果たした役割も非常に大きな評価を受けている。実際にインドにおけるチャンドラ・ボースの位置づけはガンディーと同等で、ネルーより上位であり、国会での写真の飾り方はチャンドラ・ボースが最上部になっている。なお1947年8月にインドが独立を獲得すると、インド政府は元インド国民軍将兵たちを表彰して年金も給付した。婦人部隊も作られ、日本からもチャンドラ・ボースの側近だったサハーイ(英語版)の娘アシャ(日本名「朝子」)が入隊している。 イギリス首相としてインドの独立を承認したクレメント・アトリーは、1956年にインドのカルカッタを訪問し、その当時の西ベンガル州知事P.B.チャクラボーティ判事と会談を行った。チャクラボーティ判事は、「1942年に国民会議によって開始された 『Quit India』(インドから出ていけ) 運動は完全に潰され、1944年までには完全に消滅していたのに、英国はなぜ戦後、あれほどの焦りの中でインドを離れたのか?」と質問したところ、アトリーは「それはスバス・ボースのINA(インド国民軍)と、それが英国インド軍で引き起こした反乱のせいだ」と答えた。続けて判事が「インド独立の承認においてマハトマ・ガンジーの『インドから出ていけ』運動はどのような役割を果たしたのでしょうか?」と鋭く質問した。判事によれば、アトリーは皮肉な笑みを浮かべながら「ほとんど何も無かった」と明言したという。 歴史家のエリック・ホブズボームは、「インドの独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるというよりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされた」としている。ボースの弟のサラの孫息子である在英インド系英国人で、英BBC記者やCNNインド特派員を務めたアシス・レイの調査結果から戦局が敗色濃くなった日本がインド独立闘争の継続望むボースの意思を尊重して、ソ連亡命を許可していたことが判明している。レイ記者は「独立闘争支援を優先させた日本の配慮の表れ」と述べ、連絡担当だった磯田三郎中将の功績とし、「日本がインドの解放と独立のために戦ったことは間違いない」と評価した。
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