インド国民会議との政争
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「N・T・ラーマ・ラオ」の記事における「インド国民会議との政争」の解説
1984年8月15日、アーンドラ・プラデーシュ州知事(英語版)タクール・ラーム・ラーイ(英語版)(インド国民会議所属)は開心術を受けるためアメリカ合衆国に滞在していたNTRを州首相から解任し、州財務大臣でNTRの政治アドバイザー的立場にあったナデンドラ・バーシュカラ・ラオ(英語版)(テルグ・デサム党創設メンバー、元インド国民会議党員)を後任の州首相に任命した。 手術を終えたNTRは帰国後、ラーム・ラーイの決定に対抗するためテルグ・デサム党議員全員を引き連れて州知事官邸に乗り込み、自身の勢力が健在であることを誇示した。ラーム・ラーイが解任の撤回を拒否したため、NTRは法秩序を無視するインド国民会議の横暴に抗議するように訴え、同調したジャナタ党、インド人民党、左翼戦線(英語版)、ドラーヴィダ進歩党など17政党が「民主主義救出運動」と称した抗議運動を各地で展開した。国民やメディアを巻き込んだ抗議運動は1か月間続き、インド共和国首相インディラ・ガンディーは不本意ながらラーム・ラーイを解任し、NTRを復職させるためシャンカール・ダヤール・シャルマ(英語版)を後任の州知事に任命した。これにより、NTRは9月16日に州首相に復職した。 NTRが州首相に復職した1か月後、インディラ・ガンディー暗殺事件(英語版)が発生し、彼女の息子ラジーヴ・ガンディーが後任の首相に就任した。ラジーヴ率いるインド国民会議は同年に実施された下院総選挙(英語版)で同情票を集めて大勝するが、アーンドラ・プラデーシュ州だけはNTR率いるテルグ・デサム党が勝利し、同党はインド下院で野党第一党の地位を獲得した。 総選挙後、NTRは州議会の解散を宣言し、新たな議会議員を選出するように州民に訴えた。1985年に実施された選挙はテルグ・デサム党が勝利し、NTR自身もヒンドゥプール(英語版)、ナルゴンダ(英語版)、グディバダの3選挙区で勝利を収めた。一方、元州首相でインド国民会議の重鎮だったコシュ・ブラフマーナンダ・レッディ(英語版)とコトラ・ヴィジャヤ・バーシュカラ・レッディ(英語版)はテルグ・デサム党に敗れ落選している。選挙に勝利したNTRは第2次内閣を発足させたが、1989年12月の選挙ではテルグ・デサム党の長期政権化を危惧する世論が味方したインド国民会議に敗れ、NTRは州首相を辞任した。選挙区ではカルワカルティ(英語版)で敗れたものの、ヒンドゥプールで勝利して議席を死守した。
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