アメリカとの対立と妥協
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「アメリカとの対立と妥協」の解説
19世紀後半、新興国アメリカ合衆国は工業力を飛躍的に伸ばし、世界最大の工業大国・軍事大国に変貌しつつあった。それを反映して外交面でも強気になり、カナダ(大英帝国自治領)や中米の英領との間の摩擦が増えていった。 ベネズエラと英領ガイアナ(英語版)の国境争いにもアメリカ政府は積極的に反英的介入を行うようになった。1895年8月にはアメリカ国務長官リチャード・オルニーが、ソールズベリー侯に宛てて手紙を書き、「イギリスの行動はモンロー主義に反している」と批判した。これに対して同年12月になってからアメリカに返信を送ったソールズベリー侯爵は「女王陛下の政府もモンロー主義の精神は受け入れているが、それはカナダ、英領西インド諸島、西半球におけるあらゆる英領とともにガイアナにも適用できない。ガイアナとベネズエラの国境紛争は1796年に端を発しており、女王陛下の政府はその臣民の生命や財産を守る権利をベネズエラ独立よりはるか以前からスペイン政府より認められている。アメリカ政府は西半球にあるという理由だけで、その国々がある種の状況に置かれても、必然的に利害関係が絡む責任を負わない多数の独立国に関して普遍的な命題として断言する資格がない」と一蹴した。モンロー主義を事実上否定するようなソールズベリー侯の返信にアメリカ大統領グロバー・クリーブランドは強く反発し、連邦下院へのメッセージの中で「イギリスがアメリカ大陸で武力を行使するつもりなら、これに抵抗するのがアメリカの責務である。イギリスはアメリカの調停を受け入れるべきである」と宣言した。この宣言は連邦下院の称賛を得、下院はガイアナ・ベネズエラ国境紛争調査委員会を立ち上げることを決議した。クリーブランドの宣言はイギリスがアメリカの調停に従わない場合、戦争の可能性まで意味するものと認識されたが、イギリスとの正面対決には自信がなかったクリーブランドは、委員会が調査を終える以前は如何なる行動も取らないと慎重な姿勢を示した。こうしたアメリカの動向を見守ったソールズベリー侯はアメリカがベネズエラ・ガイアナ国境紛争に介入できる権利を認めることを決めた。続いた交渉でイギリスは仲介裁判所による解決策を提案し、1896年11月にこれを規定した英米協定が成立した。1899年10月、ベネズエラ・ガイアナ問題は最終的に解決を見た。 1896年に民主党のウィリアム・マッキンレーがアメリカ大統領に当選したが、マッキンレーも対外強硬派であり、1898年には米西戦争を起こしてスペインからフィリピンとグアムの割譲を受け、またハワイも併合し、太平洋植民地化を推し進めていった。そうした中でアメリカ政府の関心は大西洋と太平洋を結ぶ運河をパナマに建設することへ向かった。マッキンレー政権の国務長官ジョン・ヘイはイギリスの駐米大使ポンスフォート男爵(英語版)とその交渉にあたった。英米交渉の結果、1900年2月にはアメリカが単独で運河を建設して経営することをイギリス政府が了承することになった(1901年11月にヘイ・ポンスフォート条約(英語版)として条約化)。この時点では運河を要塞化することは禁止されていたものの、これもやがてイギリス政府は黙認することになった。「拡張しすぎた大英帝国」としては、南アフリカのボーア戦争や中国分割をめぐるロシアとの対立だけで手一杯でアメリカと本格的に事を構えるわけにはいかなかったのである。 しかしソールズベリー侯自身は常にアメリカとの開戦の可能性を視野に入れていたらしく、植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンに「対米開戦は今年も無かった。しかしそう遠くない将来、開戦する可能性が高い」と述べていた。
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