「重戦車」分類時の計画
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「FCM F1」の記事における「「重戦車」分類時の計画」の解説
1920年代のフランスでは戦車に類別法を適用し、重量によって分類していた。最重量のクラスは「Char Lourd」、つまり重戦車で形成された。1921年と1930年の計画の中では、このクラスのための新戦車は想定されておらず、シャール 2Cが重戦車の任務を満たしていた。1926年の計画は、1928年3月28日に「Char d'Arrêt」(直訳すれば阻止戦車)計画へ至った。これは重量50tで、敵の前進を阻止できる独立した要塞「fort d'arrêt」にちなんで名づけられていた。1928年7月13日、指定通りに2門の高初速75mm砲が1つの砲塔に装備された。どちらも前面が150mm、そのほかの三方は100mm厚の装甲で防護されていた。側面装甲はおよそ60mmか70mmに厚みを減らされることとなった。速力は不整地にて約5ないし6km/hとなるはずであった。足回りに緩衝機構は装備されていない。FCMの概念設計の際に重量が100tに達し、このように巨大な車両では操向の問題を克服できないと懸念された。7月の終わりに連結式の戦車が想定されている。これは発動機と無限軌道が個別化され、砲モジュールが2倍にされていた。各車の重量は70tから80t、そして装甲は100mmを装備していた。こうした新奇な構造を考慮するより、もっと従来的な対案が並行して研究された。この戦車は重量65t、75mm砲1門を備え、120mmの装甲で防御していた。1929年2月、この対案が選ばれ、仕様に調整を加えることが決められた。1929年4月20日、この形式の戦車の製造に充てられる予算がないことが告げられた。さらに1929年5月17日、開発は中止させられた。 1929年7月、STCC(Section Techniques des Chars de Combat、戦車部技術課)ではまた別の重戦車の研究を開始し、出力500hpのエンジンとジョンソン式履帯をつけ、速力12km/hとより高速な設計案を提示している。重量は65t、砲塔に120mm砲を載せ、前面防御は50mm厚であった。1930年1月、これは高初速75mm砲を載せた重量70tの戦車の計画に変更された。全周の装甲は40mm厚で、全長は9.35mである。この設計はすぐさま廃案となり、以後長年にわたりフランスの超重戦車の開発は座から外されていた。 しかし1936年5月4日、Julien Claude Marie Sosthène Dufieux将軍の指導のもと、「Conseil Consulatif de l'Armement」(直訳で兵器諮問会議)が重戦車の開発を決定し、続いて仕様が1936年11月12日に定められた。最大重量は45t、距離200m以上から射撃された75mm徹甲弾に耐え、速力は30km/h、航続距離は200km、そして長砲身75mm砲を1門車体に搭載し、砲塔には47mm砲を搭載する事とされた。そのためこれは特大のシャール B1に似た車両になる予定だった。シャール B1は他に幾種類も開発計画が進行中であった。 1937年、AMX(イシー・レ・ムリノー工廠)、ARL(リューエ製造所)、FCMの3つの企業が試作車の提案に参加した。ARLは同時に3種類の計画案を提示すらした。ただしどれもが、この開発の初期段階でさえ45tより重たく計画されていた――しかも、実際の製造中にもっと重くなる恐れがあった。1937年3月26日、これに対して「Conseil Supérieur de la Guerre」(直訳すれば高級戦争評議会)では当初、非常に小型で安価だが60mmと重装甲で、イギリス製のマチルダI歩兵戦車によく似た車両を生産すると決めていた。また最初の設計案では37mm砲を装備していた。もっと優れた兵装が要望された際、SAET(Section de l'Armement et des Études Techniques、フランス軍参謀本部兵器戦術研究課)は1937年4月5日に調査を行い、この戦車はおよそ重量20tほどになるはずであり、一方でこの重量のクラスとして、別の戦車であるシャール G1がすでに開発に入っていると判った。 こうした結果、1938年2月、仕様がまたも根本的に変更された。今度は砲塔に75mm砲を載せた超重戦車が要求され、重量の制限は設けないこととされた。全ての計画の中で、新しい仕様はFCMが出したオリジナルの60t車両の提案に最もよく似ていた。そこでフランス最高司令部では1938年4月6日、FCMに開発契約を与えると決断した。また車両はシャール F1と呼ばれることとなった。にもかかわらず、この計画とは、重戦車設計の中間段階以外のものではなかったことが判明した。また2月にはすでに、戦車の監察官であるジュリアン・フランソワ・ルネ・マーティンを長として特別委員会が設けられており、当時、西部ドイツとの国境に新しく構築中であった防衛線、ヴェストヴァルを克服するという問題を研究中だった。
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