「重慶号」として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 17:21 UTC 版)
事件後、桂林号は川底から引き上げられ、修繕を受けて DC-2 機体番号39 「重慶号(重慶號、重庆号)」として再度運用されることとなった。乗客が不吉に思ってこの機体を避けることの無いよう、元「桂林号」であることは伏せられた。1940年10月29日、アメリカ人機長ウォルター・"フォクシー"・ケント( Walter "Foxie" Kent )の操縦する、乗客9名乗員3名を乗せた重慶号は、燃料補給のため雲南省郊外にある沾益飛行場(英語版)に着陸した。だがこのとき飛行場は重慶号着陸の数分前に日本軍の攻撃を受けており(機長はそれを知らなかった)、攻撃を行った戦闘機は未だ上空を旋回中であった。日本軍機は DC-2 の着陸を認め、動きを止めたところに攻撃を仕掛けてきた。最初の攻撃でケント機長が銃弾に倒れ、残された乗客乗員達は機体からの脱出を図ったが、皆機内で撃ち殺されるか、飛行場を走り抜けようとしたところに機銃掃射を浴びた。攻撃の結果、乗客7名、乗員2名の計9名が死亡、元桂林号である重慶号は爆発して炎につつまれ、二度と再び空を飛ぶことはなくなった。2年前の桂林号事件のときとは違い、第2次世界大戦の影響で民間機が攻撃を受けることは珍しくなくなっており、重慶号の事件は1週間程地元で報道されたのみで国際的な事件とはならなかった。中国航空公司にとって、日本軍の攻撃により被害を受けたのは桂林号事件に続き二度目のことであった。 重慶号の事件で死亡した錢昌淦(Chang-Kan Chien)はアメリカで教育を受けた中国人建築士であり橋梁技術者で、ビルマ公路にかかる橋の建設にも携わったが、死後中国政府はその功績によりビルマ公路の橋を「昌淦橋(Changgan Bridge)」と名付けたという。
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