45歳とは? わかりやすく解説

4 - 5歳

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ダンツシアトル」の記事における「4 - 5歳」の解説

ダンツシアトル復帰したのは1993年9月だった。初戦苗場特別(900下)は4着だったが、続く浦安特別(900下)を快勝この後、ウェルカムステークス(1500下)も勝ち、オープン入り果たした重賞初挑戦したのは年が明けて古馬になった1994年1月日経新春杯だった。4番人気推されたが、直線失速し7着に敗れたその後すばるステークス8着、バレンタインステークス3着とオープン特別を2戦した後、左前脚に屈腱炎発症し、ふたたび長期休養強いられたその間クラス準オープン降級した。

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4 - 5歳(1971 - 1972年)

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ナスノカオリ」の記事における「4 - 5歳(1971 - 1972年)」の解説

4歳となる1971年1月新春4歳牝馬ステークス始動したが、初の重馬場ということもあり6着に敗退したその後一休みして2月28日阪神競馬場移動したこの頃より、抱えていた消化悪さ熱発見られなくなった3月28日桜花賞トライアル競走である阪神4歳牝馬特別出走した。9番人気の評価を受け、好位から直線逃げ馬捕らえて先頭立ったが、ソラをつかうなどして伸びず、追い上げた人気薄のエリモジェニーにクビかわされた2着となった嶋田は「良馬場なら楽しみ」と桜花賞期待した4月18日桜花賞は、降り不良馬場となった稲葉は、重馬場が苦手だとして桜花賞を「七分あきらめている」というほどであり、出走前日まで9番人であったナスノカオリは、調教内容体調両方評価されたこともあり、当日直前には1番人気に支持された。稲葉は、嶋田に「スタート出遅れるな。それに負けていいから外を回ってこい」と指示した嶋田出遅れないよう右足拍車装着し良いスタート切った逃げ馬を臨む好位に位置した最終コーナー大外から逃げ馬迫り残り100メートル先頭となるとソラなどを使わず伸び後方に2馬身つけて勝利した嶋田にとって初のクラシック勝利となった東京戻り優駿牝馬オークス)のトライアル競走である東京4歳牝馬特別2番人気出走した3番手から直線コースの坂で先頭となり、後方1馬身半離して勝利連勝の身で、6月5日優駿牝馬オークス)に参戦し1枠1番に収まったこれまでサルビア賞、桜花賞東京4歳牝馬特別など4回1枠1番となり、そのすべてで勝利しているジンクスもあり1番人気に推された。スタートから馬場内側の好位につけていたが、最終コーナーではすでに後退直線入って巻き返すことができず10着に敗退した嶋田敗因を重い馬場求めていた。 夏を休養して牝馬東京タイムズ杯復帰しトウメイに差をつけられて5着。それ以降定期的に出走したが、1年4か月勝利することができなかった。5歳秋新潟競馬場福島競馬場オープンを3勝し、有馬記念推薦馬に選出され出走。最低人気ながらタケデンバード先着するなど9着となり、このレース最後に競走馬引退した

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4 - 5歳(2003 - 04年)

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ファインモーション」の記事における「4 - 5歳(2003 - 04年)」の解説

有馬記念以後放牧出され福島県いわき市競走馬総合研究所常磐支所馬の温泉」での休養経て2003年5月に帰厩した。8月17日札幌競馬場1800mコースクイーンステークスGIII)で復帰し単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持されるも、オースミハルカ逃げ切り遭い2着敗退。秋は、武のお手馬の関係で連覇がかかるエリザベス女王杯ではなく天皇賞(秋)目標据え前哨戦毎日王冠GII)に臨むも7着に敗れた外国産馬天皇賞(秋)出走は、2頭までに制限されており、2頭を過去1年間獲得賞金によって決定する方式採用されていたが、ファインモーション毎日王冠敗れたことで落選し天皇賞(秋)出走断念した代わりに11月23日マイルチャンピオンシップGI)に出走大外から発走し、直線では逃げギャラントアローを外から捕らえたが、さらに外側大外から強襲しデュランダル上回り、4分の3馬身差の2着敗退。武は直線半ば時点勝利を確信していたと回顧している。続いて12月21日阪神牝馬ステークスGII)では、ハッピーパス追い上げクビ退けて1年振り勝利を果たした5歳となった2004年現役続行安田記念GI)で始動するが、武が制御することができず13敗退。夏の北海道渡り7月25日函館記念GIII)では馬群避けることで制御が可能となったが、その反面大外を回ることとなった直線伸びたが、内を通ったクラフトワーククビ及ばず2着に敗れた続いて8月22日札幌記念GII)では、最後待機することで折り合い、好位で直線迎えて抜け出した2番手を進んだバランスオブゲームを半馬身かわして後続離し重賞5勝目果たした。秋は、前年2着のマイルチャンピオンシップ出走するも、制御不可能となり直線で全く伸びず9着に敗退その後ローテーション計画されていたが、引退決定した

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4-5歳(2013年-2014年)

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スピルバーグ (競走馬)」の記事における「4-5歳(2013年-2014年)」の解説

東京優駿から1年余ののちの2013年8月戦列1000万クラス復帰し復帰初戦日高特別は馬場合わず6着に終わるが、秋に入って神奈川新聞杯を勝って3勝目挙げ11月1600下戦ノベンバーステークスも勝って2連勝この後は再び休養入り2014年のメイステークスで復帰して5勝目挙げる続けてエプソムカップ出走予定も骨瘤を発症して回避し、秋まで待機余儀なくされる。秋初戦毎日王冠3着のあと天皇賞(秋)駒を進めレースでは後方から進めて直線で外から差し切り、ジェンティルドンナを4分の3馬身下してG1競走制覇遂げた馬主山本英俊にとっても所有馬初のGI勝利となった11月ジャパンカップでも3着に入った

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4-5歳(1980-1981年)

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アンバーシャダイ」の記事における「4-5歳(1980-1981年)」の解説

デビュー4歳になった1980年1月5日新馬戦と遅れ、二本柳厩舎主戦騎手である加藤和宏鞍上据え中山ダート1700mを3着。折り返し1600mの新馬戦勝ったその後400下と若草賞400下)を11着、12着と大敗し皐月賞への道を絶たれた。 皐月賞当日400下を勝ち、東京での4歳中距離S(800下)を3着としたので、日本ダービーへの出走得たものの、当日27頭中19番人気であり、オペックホースモンテプリンス叩き合いの遥か後方となる9着であった。このダービー4歳時唯一出走した重賞となり、秋は菊花賞には出走せずに条件別のみを走った5歳となった1981年香取特別(1200下)5着、ブラッドストーンS(1200下)3着、卯月賞(1200下)1着とした後、4月ダイヤモンドSダービー以来となる東信二鞍上出走2度目重賞挑戦で9頭中7番人気ながら3着と好走すると、その後加藤手綱戻り6月みなづき賞(1700下)をレコードタイム快勝休養経て緒戦初秋S(1200下)も快勝し連勝でオープンクラスに昇格。続く毎日王冠日本レコード駆けた牝馬ジュウジアロークビ差の2着となり、4番人気第84回天皇賞挑戦二本柳厩舎からは本馬ホウヨウボーイの2頭出しとなり、両馬主戦であった加藤ホウヨウボーイ選択しアンバーシャダイには初コンビとなる郷原洋行鞍上据えられた。この天皇賞ホウヨウボーイモンテプリンス歴史的な叩き合いになり、ホウヨウボーイハナの差で勝利アンバーシャダイは2頭との力の差があり、人気通りの4着に沈んだその後鞍上加藤戻り通算21戦目となる目黒記念・秋で1番人気に応えて重賞初制覇続いて出走した有馬記念では、アンバーシャダイホウヨウボーイモンテプリンスに次ぐ3番人気であったとはいえファン投票12であったレースモンテプリンス先行しホウヨウボーイがやや後方アンバーシャダイはこの2頭を前後ろに見ながら中団に位置した直線迎えてホウヨウボーイ早めに抜け出すと、アンバーシャダイラチ沿いを駆けていたモンテプリンスの横を出し抜く様に一気伸びホウヨウボーイに2馬身半の差を付けて快勝人馬共にGIレース&八大競走制覇果たした戦前、「ホウヨウボーイ横綱ならアンバーシャダイ関脇小結」と語っていた二本柳表彰式複雑な表情浮かべ、後に「ホウヨウボーイ花道を飾らせてやりたかったが、そうは行かなかった」と語った馬主善哉は「いよいよノーザンテースト時代だ」と予感するような喜び表情浮かべたが、東は後に2着狙いレースをしたと明かしており、「交わした瞬間は『ウワァどうしよう勝っちゃった』って感じ」「ホウヨウボーイ悪かった」と回想している。

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4-5歳(1988-89年)

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サッカーボーイ」の記事における「4-5歳(1988-89年)」の解説

3月6日弥生賞GII)で始動単勝オッズ1.6倍の1番人気に推され単枠指定制度対象となった関東2歳チャンピオンであるサクラチヨノオーが、始動戦の共同通信杯4歳ステークスGIII)4着から参戦し、5.5倍の2番人気となり、東西2歳チャンピオン顔合わせた。スタートからサクラチヨノオー逃げる中、中団に位置直線では外に持ち出して差し切りを図ったが、逃げサクラチヨノオー捕らえることができず、サクラチヨノオーに2馬身以上離される3着。皐月賞優先出走権獲得し出走予定していたが、蹄の状態が悪化して飛節炎を発症したために回避した皐月賞逃した陣営は、目標東京優駿日本ダービー)に切り替え5月4日トライアル競走であるNHK杯GII)に出走河内洋乗り替わり単勝オッズ3.5倍の1番人気に推された。中団内側の9番手位置し直線追い上げるも、メジロアルダンやマイネルグラウベンの末脚に敵わず、それらに2馬身以上遅れる4着。東京優駿優先出走権獲得し続いて5月29日東京優駿日本ダービー)(GI)に出走。822番大外割り当てられ3歳となってからは連敗していたにもかかわらず皐月賞優勝馬ヤエノムテキなどを押しのけ、単勝オッズ5.8倍の1番人気に推された。後方位置したが、直線で全く伸びずに15着。河内敗因を距離に求めている。 その後は、夏休み入らず続戦し、7月3日中日スポーツ賞4歳ステークスGIII)に出走皐月賞優勝馬ヤエノムテキ同じく続戦しており、ヤエノムテキ単勝オッズ1.8倍の1番人気、サッカーボーイはそれに次ぐ3.4倍の2番人気となり、初めて1番人気を他に明け渡したまた、両者はともに単枠指定制度対象となったサッカーボーイ後方位置し先行馬有利のスローペースの中で追走直線では大外持ち出して追い上げヤエノムテキ2番手先行から先に抜け出していた。サッカーボーイ末脚見せてヤエノムテキ迫りゴール手前で半馬身差し切って先頭入線重賞2勝目となり、4歳になってから初め勝利を挙げた。後に、河内はこの一戦きっかけに「小細工不要少々外を回ることになって気分良く走らせてあげればはじける馬だと分かりました」としており、その後は「他馬の騎乗依頼も来たけど“100%勝てる馬がいるから”と言って全てお断りしました」と述懐している。 続いて8月21日函館記念GIII)に出走古馬初めての顔合わせとなったが、相手は、メリーナイスシリウスシンボリという2頭の東京優駿優勝馬や、牝馬クラシック二冠馬のマックスビューティ出走する「夏のローカルとは思えない豪華メンバーによる一戦」(辻谷秋人であったそんな中古馬押しのけて単勝オッズ2.2倍の1番人気。以下、人気シリウスシンボリメリーナイス続いた後方位置し第3コーナーあたりで外から追い上げると、最終コーナーでは先頭のトウショウサミットに並びかけた。直線先頭に立つと、好位のメリーナイスシリウスシンボリ寄せ付けず独走。その差を5馬身まで広げて先頭入線重賞2連勝となった走破タイム1分57秒8は、ニッポーテイオー1986年8月函館記念樹立したコースレコード・1分58秒6を0.8秒更新。さらに、サクラユタカオー1986年10月天皇賞(秋)樹立した日本レコード・1分58秒3を0.5更新したその後については、小野菊花賞出走社台ファーム牧場長吉田勝己社台ファーム空港牧場長大沢天皇賞(秋)出走それぞれ指向していたが、その前哨戦選んだ京都新聞杯出走前左前脚の球節捻挫し結局すべて断念代わりに11月20日マイルチャンピオンシップGI)に出走し単勝オッズ2.2倍の1番人気に推された。スタートから後方位置第3コーナーあたりで外から追い上げると、最終コーナー4、5番手通過直線では、逃げ粘る先頭のミスターボーイに5馬身リード許していたが、大外から末脚見せて追い上げると、残り200メートル地点かわして後続突き放した。その差を4馬身まで広げて先頭入線し、重賞3連勝、GI2勝目挙げた。また河内にとっては、この年JRA重賞13勝目であり、自身1986年12勝を挙げて樹立した年間最多重賞勝利記録更新したレースについて河内は「(前略)坂の下りからの行きっぷりがよかったので、4コーナー勝てると思った」と述懐している。 続いて12月25日有馬記念GI)に出走天皇賞(秋)ワンツージャパンカップツースリーとなったタマモクロスオグリキャップという芦毛の2頭が参戦しその2頭にサッカーボーイ加えた3頭が、単枠指定制度対象となった人気タマモクロス単勝オッズ2.4倍の1番人気、オグリキャップ3.7倍の2番人気、そしてサッカーボーイは4.8倍の3番人気であった入り後、サッカーボーイ発馬機内で暴れて、歯を折り鼻血出した。それからスタート出遅れ最後方に位置直線では大外持ち出して追い上げるも、先に抜け出したオグリキャップタマモクロスには届かずその2頭に2馬身離された4位で入線。2頭に半馬身離され3位入線スーパークリークが、メジロデュレン進路妨害したため失格となり、サッカーボーイ繰り上がって3着となった。(競走に関する詳細は、第33回有馬記念参照。) 1988年の「フリーハンデ」では、有馬記念制したオグリキャップ世代首位の「65」、東京優駿制したサクラチヨノオーが「63」で次点となり、サッカーボーイはそれらに次ぐ「62」で世代3位評価与えられた。また、4歳上の馬を対象に、1600メートル以下の短距離限定したフリーハンデ」では、安田記念制したニッポーテイオー並んで全体首位の「63」。「63」は、函館記念日本レコード制しマイルチャンピオンシップ2着となって62」に評価された、ニッポーテイオー4歳時1986年)を上回るものであり、ハンデキャッパーは、2頭の4歳時比べたとき、サッカーボーイの方が優れているとの結論至った。また1988年JRA賞表彰では、全172票中104票を集めてJRA賞最優秀スプリンター選出。以下、次点ニッポーテイオー36票、ダイナアクトレス14票、シンウインドが7票で続いた5歳となった1989年には、マイラーズカップから始動する予定であった骨折その後は「砂のぼり」と呼ばれる蹄の病気が右後脚襲ったが、8月には函館競馬場入厩し、UHB賞や毎日王冠復帰する予定だった。さらに、天皇賞(秋)目標としていたが、再び脚部不安となり、結局復帰することなく競走馬引退した

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4-5歳(2011-12年)

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ヒルノダムール」の記事における「4-5歳(2011-12年)」の解説

古馬となった2011年1月16日日経新春杯GII)で始動。好位から抜け出したルーラーシップに2馬身及ばなかったが、ジャパンカップ優勝馬の1番人ローズキングダムハナ下して2着。続いて2月13日京都記念GII)では後方待機から追い込み直線早めに抜け出したが、トゥザグローリーメイショウベルーガかわされ3着に敗れた若駒ステークス以降1年間勝利から遠ざかっており、かつ重賞GIで2着3着を続けていたことから「シルバーコレクター」と形容されるまでになっていた。 4月3日産経大阪杯GII)では、エイシンフラッシュなどGI優勝馬4頭を上回る1番人気に支持され出走。中団の位置から抜け出し逃げキャプテントゥーレをかわすとともに追い込むダークシャドウなどを退けて優勝重賞初勝利となった。2着のダークシャドウとはハナ差の決着であった走破タイムの1分57秒8は、タップダンスシチー保持していたコースレコードを0.3秒更新した5月1日天皇賞(春)出走前哨戦制したものの豪華メンバー7番人気という評価であった先頭次々と替わる中、中団に位置して最終コーナー達し逃げナムラクレセントかわして抜け出した同じく中団から追い上げたエイシンフラッシュを半馬身退けて決勝線通過しGI勝利を果たした藤田は「自分のこと後でいいです自分のことよりも、この馬でGI勝てたこと、この馬をGI馬にできたことが本当にうれしいですね」と振り返った。 秋は、フォワ賞から凱旋門賞出走するためにフランス遠征当地厩舎を営む日本人小林智厩舎入り留学中田中博康調教担当した遠征に際して帯同する現役競走馬当地購入し水の浄化装置まで持ち込むなど対策した。9月11日フォワ賞G2)ではサラフィナに次ぐ2着となったが、10月2日凱旋門賞(G1)では出走直前猛暑と、競馬場までの移動渋滞により体調すぐれず10着に敗れた日本帰国後は、年末有馬記念GI)に出走したが6着敗退5歳となった2012年現役続行し、4戦に出走するもGII3着2回が最高で勝利を挙げることはできなかった。札幌記念3着後に右前脚浅屈腱炎発症し11月21日付け競走馬登録を抹消引退した

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4-5歳(1991-1992年)

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フジヤマケンザン」の記事における「4-5歳(1991-1992年)」の解説

1991年1月6日京都開催新馬戦デビュー戸山厩舎所属小島貞博鞍上に、初戦は5着となった2週間後の2戦目、550kgと未だ絞りきれていない身体ながら、2着に2馬身差を付けて勝利を挙げるその後右前脚に骨膜炎発症して休養入り、春のクラシック競走には出走できなかった。 8カ月半後の10月復帰し格上挑戦嵯峨野特別(900下条件)に出走し、7頭立ての6番人気ながら逃げきり勝利。さらに翌週クラシック三冠最終戦菊花賞への出走目指し嵐山ステークス臨んだが2着と敗れる。菊花賞収得賞金不足で除外対象となったが、直前回避馬が出て滑り込みでの出走叶った。春二冠制したトウカイテイオー故障により不在混戦模様といわれるなか、フジヤマケンザン調教で好タイム記録するなど好調で、当日は8番人であったレーススローペース推移するなか4~5番手を追走最後直線ではいったん先頭に立ち逃げこみを図ったが、レオダーバンイブキマイカグラかわされての3着となった小島は「放牧から帰ってきて3走目。それでこれだけ走ってくれるんだから、今後良くなってくると思うよ」と先々への期待述べたフジヤマケンザンはさらにジャパンカップ年末有馬記念と大競走連続して挑んだが、それぞれ8着、10着に終わる。翌1992年1月には自己条件準オープン戦・ジャニュアリーステークスで3勝目挙げあらためてオープンクラスに昇格した2月には長距離3200メートル重賞競走ダイヤモンドステークス出走。やはり長距離競走である菊花賞3着の実績もあり1番人気に推されたが、8着と敗れた3月には中距離1800メートル中日新聞杯出走当日2番人気支持されると、最終コーナー進路失いながらも内埒沿いをついて抜けだし、通算10戦目での重賞初勝利挙げた競走後小島は「もともと中距離タイプの馬だと思っていましたからね。このくらいの距離が合うのでしょう」と語り、また戸山為夫は「この馬は体が大きすぎて長距離は合わんかも。2000メートルぐらいがベスト」との見解示した。 この直後左前脚の球節痛めて再び長期休養に入る。12月にディセンバーステークスで復帰し逃げきり勝利を挙げると、年末には有馬記念出走調教で一番時計出し好調を窺わせたが、レースでは中団から全く伸びず、14着と敗れたこのあと鍛え直し図られフジヤマケンザン三度めの長期休養入った

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4-5歳(2014-15年)

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コパノリチャード」の記事における「4-5歳(2014-15年)」の解説

2014年3月2日阪急杯GIII)から始動マイルチャンピオンシップ3着から参戦するダノンシャークが2.8倍の1番人気、コパノリチャードはそれに次ぐ2番人気、4.8倍であった1枠1番からスタートしてハナ奪って逃げた最終コーナーでは3番人気ガルボ迫ってきたが、直線突き放して独走となった追い込む後続は、ガルボかわしたのみ、それらに4馬身差をつけて入線した。重賞3勝目高松宮記念優先出走権獲得逃げ切りによる阪急杯制覇は、2008年ローレルゲレイロ以来6年ぶりであった。前の週に行われたフェブラリーステークスGI)は、コパノリチャード同期で同じヤナガワ牧場生産小林所有コパノリッキー優勝しており、ヤナガワ牧場小林にとっては2週連続JRA重賞優勝であった続いて3月30日高松宮記念GI)に出走コパノリチャードにとって初めての1200メートル参戦であった。近5戦は浜中騎乗し重賞2勝を挙げていたが、ドバイ遠征したために騎乗不能となり、代わりに短期騎手免許騎乗していたミルコ・デムーロ乗り替わった当日レース史上初となる不良馬場加えて強風が吹く中での開催であった前年函館開催出世し9戦連続2着以内、前走のシルクロードステークスGIII)で重賞初勝利挙げたストレイトガール単勝オッズ2.6倍の1番人気、前年高松宮記念3着、スプリンターズステークス2着のハクサンムーンが5.9倍の2番人気コパノリチャードは、それに次ぐ7.7倍の3番人気であったスタートから15番人気エーシントップ逃げる中、コパノリチャード先行し3番手の好位、馬場の最も内側進んだ戦前ハクサンムーン逃げ宣言をしていたが、出遅れており後方からとなっていた。最終コーナーコパノリチャードは、馬場の最も内側か外側持ち出して馬場中央から追い上げ開始後方の馬も外に持ち出しコパノリチャードより外側か追い上げ開始したコパノリチャード伸びて残り200メートル地点エーシントップ捉えて先頭となり、以後、他の接近なく、独走態となった。ゴール寸前にてデムーロは、両手手綱から離して平(左右)に伸ばす行為飛行機ポーズ」を繰り出しそのまま入線大外から追い込んだスノードラゴンに、3馬身差をつけてGI初優勝となった。 3馬身差の決着は、レース史上2位着差。1分12秒2での決着レース史上最も遅かった4歳馬による勝利は、1996年フラワーパーク2002年ショウナンカンプ続き3例目。1200メートル初体験の馬による勝利は、2006年オレハマッテルゼ以来2例目であった。またヤナガワ牧場小林は、コパノリッキー制したフェブラリーステークス続いてJRAGIを連勝GI競走整備され1984年以降開幕から同一馬主連勝することは史上初めてのことであった。 またデムーロは、「決勝線手前での御法騎乗ぶり)」が指摘され過怠金課された。デムーロにとって「飛行機ポーズ」の発動は、2007年中日新聞杯JpnIII)、サンライズマックス制して以来であり、2007年過怠金5万だったが、今回10万円が課された。デムーロは「純粋なファンへの感謝メッセージと、うれしい気持ちけだった。それを理解してほしい」と語っている。 その後短期放牧挟んで臨んだ5月17日京王杯スプリングカップGII)は7着。安田記念GI)は回避したその後は、6月22日函館スプリントステークスGIII)か7月6日CBC賞GIII)、または休養三択から、函館スプリントステークス選択したが、右トモ筋肉痛症状見られたために回避小国スティーブル夏休みとなった。 秋は、9月10日に帰厩した。秋の目標10月5日新潟競馬場スプリンターズステークスGI)とし、前哨戦用いず直行。宮は「前哨戦を使うとなると、暑い時期から本格的な調教始めなければなりませんし、鉄砲の利く馬なので」と理由述べている。そのスプリンターズステークスでは、スタート後手踏み12着。11月3日JBCスプリントJpnI)では初めダート出走し3番人気最下位となった続いて12月27日阪神カップでは、先行して直線抜け出したが、外から追い上げたリアルインパクトに並ばれ、さらにダイワマッジョーレ加わって3頭での競り合いとなったその3頭からコパノリチャードリアルインパクト勝り、2頭は馬体併せたまま入線リアルインパクトハナ先着しており、コパノリチャードは2着に敗れた5歳となった2015年は、前年同様に阪急杯から高松宮記念進み、6着、5着。それから11月29日までに4戦し、いずれも二桁着順小林は「なかなか結果出せなくなってしまったのは精神的なのである可能性が高いため、『これ以上嫌な思いをさせてレース走らせてリチャードのためによくない』」と判断しコパノリチャード引退決意12月4日付けJRA競走馬登録を抹消した

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4-5歳(1982-83年)

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リーゼングロス」の記事における「4-5歳(1982-83年)」の解説

4歳となる1982年初戦には、桜花賞トライアル競走である阪神4歳牝馬特別選択。脚への不安から満足に調教できず飼葉加減し馬体重はマイナス14キログラム、さらに鞍上初騎乗となる清水英次だったことから、人気落とし7番人気支持であった担当厩務員長谷部謙司は、この時の状態を「6分ぐらいの出来」と評している。不良馬場の中後方待機選択し直線では内側持ち出して伸び、2着を確保した逃げたツキマリーがそのまま優勝しその1馬身4分の1遅れて入線であった清水は、不良馬場35秒台の末脚見せたことを高く評価し最後100メートルでは勝てるかなと思ったほどだ」とも話した続いて4月11日桜花賞出走3歳牝馬ステークス勝利後、さらにクイーンカップ制したビクトリアクラウン桜花賞直前に左膝骨折、出走回避したことから、本命不在となる「混戦ムード」(横尾一彦)の状態が生まれたそんな中リーゼングロスは前走負かしたマンジュデンレディに1番人気を譲った2番人気支持された。 スタートからツキマリーが逃げる中、リーゼングロスはその7,8馬身後ろ7番手くらいに位置した残り600メートル地点3番手まで進出し最終コーナー逃げるツキマリーに、外から並びかけると、まもなくかわして先頭となった独走して後方との差を広げ先頭入線。外から追い込んだメジロカーラに5馬身差の勝利は、1975年テスコガビー記録した大差に次ぐ史上2番目 の着差記録した清水は、クラシック競走初優勝となり、最終コーナー時点勝利を確信していたと明かしている。 二冠目の優駿牝馬オークス)に向けてトライアル競走東京4歳牝馬特別に1番人気の支持出走。第2コーナー両隣挟まれ失速する不利を受け、一時最後方に位置した。しかし、直線位置上げ、半馬身差で先頭入線した。この勝利に、横尾一彦は「まるで調教をつけているように馬なりのままの楽勝」と表している。清水は、前哨戦のため全力で追うことを避けたが、追えば桜花賞並み着差期待できたとしており「オークス自信ありますよ」と話した4月23日優駿牝馬オークス)に参戦リーゼングロス人気集まり優駿牝馬史上初めてとなる単枠指定制度対象となった。ところが、馬場入場後の返し馬にて、通路切れ目驚いて飛んでしまい、騎手落として放馬向こう正面通路から正反対直線コース坂上まで1200メートル空馬状態で走ってしまった。やがて捕獲され馬体検査が行われたが異状なく、落馬した清水も軽い脳震盪留まり人馬とも出走することとなったスタートから先行して4番手に位置し直線では先に抜け出していたシャダイアイバー目がけて追い上げた馬体併せて200メートル以上競り合ったが、半馬身届かず2着敗退二冠逃した清水敗因を、直前放馬というより短距離血統の父アローエクスプレス求めていた。 3か月間の休養挟んで函館記念復帰したものの12着。その直後に、右前脚に屈腱炎きたして9か月間の長期離脱となった療養中古馬となり、1983年5月21日のエメラルドステークスで復帰を果たすも9着敗退。それから秋まで出走し続けたが、勝利を挙げることができなかった。年末有馬記念出走前脚部不安きたして回避し競走馬引退した

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45歳

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年齢」の記事における「45歳」の解説

サッカー国際審判員定年高年齢者雇用安定法における「中高年齢者」下限

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4・5歳

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イチカントー」の記事における「4・5歳」の解説

登録名イチカントーへと変え当初下級条件格付けされたが途端に連戦連勝記録するうになる川崎開設記念直前脚部不安取り消すアクシデントもあったが、大井記念前年秋の鞍馬ケンチカラに半馬身差の2着に敗れるまで転入以来9連勝記録7月には川崎記念重賞初制覇達成したここまで南関東での戦績は、1211勝2着1回というものであったその後船橋NTV盃で3着に敗れ初めて連を外したが、充実ぶりは変わることなく秋に金盃秋の鞍制している。

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