海軍甲事件とは? わかりやすく解説

海軍甲事件

作者吉村昭

収載図書海軍乙事件 新装版
出版社文藝春秋
刊行年月2007.6
シリーズ名文春文庫


海軍甲事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/08 05:30 UTC 版)

海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、第二次世界大戦中の1943年昭和18年)4月18日に、前線を視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本が戦死した事件である。アメリカ側名称はヴェンジェンス作戦英語: Operation Vengeance)。


注釈

  1. ^ 作家の保坂正康の話では、ニミッツは、山本長官よりも優秀な軍人が後任になるなら攻撃を手控えようと本国に連絡して伺いを立てた結果、本国からは「山本五十六に代わるような軍人は山口多聞だが、彼は先のミッドウェー海戦で戦死しているので山本機を撃墜して構わない」と回答したとしている[3]

出典

  1. ^ 吉村昭『戦史の証言者たち』文藝春秋35-36頁
  2. ^ 『日本軍航空機総覧』新人物往来社197頁
  3. ^ 週刊文春2010年12・19日夏季特大号。保坂正康のルポ
  4. ^ 吉村昭『戦史の証言者たち』文藝春秋36頁
  5. ^ a b c 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作(上)』新潮社<新潮文庫>、2003年、163頁
  6. ^ エドウィン・T・レートン(Edwin T. Layton)著 毎日新聞外信グループ訳「エピローグ 東京湾へ」『太平洋戦争暗号作戦(下)』P321
  7. ^ a b 春名幹男、2003年、164頁
  8. ^ 山本長官機撃墜、米に暗号筒抜け 古い乱数表を使う共同通信2008年9月27日
  9. ^ 蜷川親正『山本五十六の最期 - 検死カルテに見る戦死の周辺』光人社、1986年(光人社NF文庫、1996年)


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海軍甲事件

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山本五十六」の記事における「海軍甲事件」の解説

詳細は「海軍甲事件」を参照 い号作戦終了後山本は、ブーゲンビル島ショートランド島前線航空基地将兵労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島ブイン基地経てショートランド島近くにあるバラレ島基地赴く予定立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面打電された。小沢治三郎は、山本機と宇垣機の護衛戦闘機少ないことを危惧し先任参謀黒島亀人護衛機50増やすことを宇垣伝えるよう託した黒島デング熱体調悪く宇垣伝えなかった。 アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信され暗号電文解読してこの前視察情報知ったニミッツは、山本暗殺議論で後にもっと優秀な司令官出てくることを心配したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官登場する恐れは無い」という答えがあり、また、山本戦死すれば日本士気大きく低下すること、山本きわめて時間正確な男で今度予定を守るだろうということ理由山本暗殺決断し南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼー対す命令書を作成した4月18日午前6時山本含めた連合艦隊司令部第七〇五航空隊一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地発進した山本1号機宇垣2号機搭乗する零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング16機に襲撃撃墜され戦死した。この事件は後に海軍甲事件と呼称された。59歳没。戦死時に着用していた第三種軍装陸戦服装)は、太平洋戦争突入してから山本初め着用したのだった戦死時、偶然に一式陸攻墜落目撃した陸軍第六師団歩兵第二十三連隊長・浜之上俊秋大佐は、山本機とは知らず軍医中尉蜷川親博と見習士官中村常男に捜索救助命令出した墜落当日発見失敗した歩兵砲中隊浜砂少尉部隊も、墜落機から煙草食料入手すべく、山本機とは知らず捜索開始した中村隊と同様に墜落当日到達できず、翌日になって山本機と山本らの遺体発見した佐世保鎮守府第六特別陸戦隊第一中隊第一小隊長・吉田雅維少尉は、最初から山本機と知らされ捜索赴いた墜落当日発見できず、19日午前中に浜砂隊と遭遇浜砂隊に遅れて現場到着した最初に現場到着した浜砂によれば山本遺体機体の傍に放り出されていた座席着座し、右手軍刀握ったまま、泰然としていた。すぐ左によりそうように高田軍医長遺体があった。連合艦隊司令部から現場赴いた渡辺安次参謀藤井上等水兵受けた警備隊からの報告では、山本墜落現場から4 - 5m離れた場所に一式陸上攻撃機座席布団座って長剣握ったまま倒れ高田軍医長山本飛行機の間に倒れていたという。 浜砂によれば衣服脱がせていないので断言できないが、右前頭部擦過傷があったが、外見さしたる傷はなかったという。直後中村隊も現場到着した渡辺安次証言では、遺体発見時に胸部頭部貫通銃創があったとしている。軍医少佐田渕義三郎遺体検死記録によると「死因戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴ貫通した事、背中貫通した事」という結論出され、ほぼ即死状態であった結論づけている。一方で山本遺体清めた安部茂元大尉らから、顔面銃創がなかったという。浜砂隊が遺体動かしていたが、吉田山本即死ではないと判断している。山本搭乗していた一式陸上攻撃機銃撃したP-38武装イスパノ・スイザ HS.404航空機関砲口径20mm)と ブローニングM2重機関銃口径12.7mm)であり、「小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム」という検案記録通りであれば半分吹き飛ぶはずである。また田渕後方検死行っただけで現場見ておらず、蜷川から引き継ぎ行っていない。田渕自身不審思った深く追求できず、戦後粗雑な書類単なる形式処理であったことを認めている。実際に田渕山本軍服記念に保管しようとしたところ、渡辺遺体から衣服脱がすことを強い口調禁止した。 公式には機上即死した記録されているが異論もある。熱帯地方では死体猛烈ながわくが、浜砂中村19日午後段階山本遺体ウジ虫認めていない。この事から、山本機上での戦死ではなく死亡時刻19日午前6時ごろと推測する見解もある。20日午前8時に浜砂海軍陸戦隊が再び現場到着すると、山本遺体顔面形相判別できないほど腫れ上がり遺体全体ウジ猛烈に発生していた。 最初に山本検死行った蜷川親博は、遺体に顎の外傷や口胞内出血認めず全身打撲内臓破裂によるショック死という結論メモ残している。蜷川実弟である蜷川親正は、山本死体の傷は渡辺安次南東方面艦隊軍医長大久保信による死後損壊述べ山本当初生存していたものの、全身打撲もしくは内臓破裂により、19日夜明けごろ絶息したと結論づけている。 山本搭乗機撃墜したP-38搭乗者についてはトム・ランフィア陸軍大尉かレックス・バーバー陸軍中尉かで戦後長らく論争続いた実際にP-38飛行させて検証した1990年平成2年)の実験では、バーバー中尉撃墜した可能性が高いという結果出た。しかしアメリカ空軍省は実験結果認めずランフィアバーバー共同撃墜という立場とっている。戦後インタビューランフィアは、「一式陸上攻撃機射程内に捉えたとき、機銃がうまく働くかどうか試し撃ちをしたところ、それが偶然命中した相手後ろにくっつこうとしながら試し撃ちをしていたところ右のエンジンが火を噴きジャングルの中へ落ちていった。」と語っている。 渡辺安次は、先任参謀黒島亀人渉外参謀藤井茂機関参謀磯部太郎従兵長・近江兵治郎だけが参加した戦艦武蔵」での通夜で「同乗者達は長官火災から守るため、機内で自ら盾になった長官は無事脱出したが、捕虜になることを恐れて拳銃自決した」と語っている。遺体ラバウル火葬付され木箱の底にパパイヤ敷いた骨箱おさめられた。遺骨トラック諸島に一旦運ばれて、その後内地帰還する戦艦武蔵」によって日本本土運ばれた。遺族には4月20日夕刻海軍大臣嶋田繁太郎秘書官麻生孝雄が戦死告げている。山本遺体火葬した際の灰は、ブイン基地滑走路隅に埋められパパイヤの木が植えられた。公式には、遺骨郷里長岡多磨霊園分骨されているが、河合千代子元に分骨されて内輪だけの告別式行っている。 5月25日ブイン地区海軍町田部隊新川正美主計大尉訪問した矢数道明はその翌日大尉先導山本の墓に案内されている。「粗末な柵で囲まれ一廓中央には、ただ土が盛りあげられ両側二本パパイヤ植えられているばかり。「極秘ですが、ここが山本元帥の墓です」というのであった私達感無量思いで額き、しばしここを離れることができなかった」という。 戦死後藤井茂近江兵治郎が遺品整理するため「武蔵長官室に入った。すると山本には封筒入れた封印無し遺書永野修身嶋田繁太郎堀悌吉、妻・礼子反町栄一宛)、さらに遺髪一人分ずつ紙に包まれていた。山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日大本営発表ならびに内閣告示第8号公になった。山本対し大勲位功一級正三位元帥称号贈られ国葬付することが発表された。新聞連日報道行い日本国民大きな衝撃受けている。 5月27日付でドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章授与される。この勲章騎士鉄十字章5等級のうち3段階目にあたるが、受賞者ドイツ国全体でも160名しかおらず、外国人受賞者山本のみである。また、山本騎士鉄十字章外国人受賞者としては単独最高位となっている。 昭和天皇山本国葬決定された際、侍従武官山縣有光に「山本元帥国葬にしなければならないのかね」と疑問呈したが、6月5日日比谷公園国葬が行われた。葬儀委員長米内光政務めた皇族華族ではない平民国葬送られたのはこれが戦前唯一の例である。朝日新聞社は『元帥山本五十六傳』を刊行斎藤茂吉佐藤春夫始め多く詩人追悼詩歌寄せ、7部を刷った山本死去時点では、日本軍連合国軍各地一進一退戦い続けており「海軍相次ぐ大敗北を見ず戦死してかえって幸せだった」とする意見もある。中澤佑中将河合千代子も、山本戦死した事を「ある意味幸せ」と表現し、もし終戦時健在ならば東京裁判戦犯として裁かれていた可能性指摘している。 連合艦隊司令長官着任から戦死までの約3年8か月務めた。この在任期間歴代長官最長である。なお、山本歴代司令長官唯一の戦死者山本後任となった古賀峯一大将殉職扱い)である。戒名大義院殿誠忠長陵居士。(「長陵」は生前山本用いていた雅号である。) 国葬の後、東京都府中市多磨霊園7番特別区埋葬された。墓石茨城県産出真壁小目建立されている。右には東郷平八郎元帥の墓、左には古賀大将の墓が並び墓石文字米内書いた後年山本遺骨郷里長岡市帰り、現在は長興寺にある山本家墓所埋葬されているが、多磨霊園墓所そのまま残されている。

※この「海軍甲事件」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
「海軍甲事件」を含む「山本五十六」の記事については、「山本五十六」の概要を参照ください。

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