ロシア革命後
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「至聖三者聖セルギイ大修道院」の記事における「ロシア革命後」の解説
1917年のロシア革命後、ソビエト政権によって1920年に大修道院は閉鎖された。ソ連政府により、大修道院の建築物や装飾品、イコンなどは国有化された。1920年ソ連政府は、修道院群を野外文化財博物館に転用する決定をした。しかし、その後も文化財破壊は続き、1930年大修道院にあった鐘は全て鋳つぶされた。その中には、皇帝の鐘と呼ばれた65トンの重さを誇った鐘もあった。多才な聖職者であったパーヴェル・フロレンスキイと彼の部下は、ソビエト当局による大修道院の聖器物売却を防ごうとしたが果たせず、多くの貴重な文化遺産が喪われ、他のコレクションへの混入や、ロシア国外に流出する事態を生んだ。 第二次世界大戦、さらに独ソ戦が勃発すると対独戦争完遂のため、スターリンは、従来、ソ連共産党が採っていた方針を転換し、国民のロシア・ナショナリズム、愛国心の鼓吹のため帝政時代の英雄や宗教的権威を認めた。その一環として1945年大修道院跡はロシア正教会に返還された。1946年4月16日、生神女就寝大聖堂において、聖堂を再び奉神礼に用いるため、成聖式が行われた。 1960年代から1970年代にかけて、主要な文化遺産の復元修理が行われた。大修道院には1983年までモスクワ主教座が置かれたが、1983年には主教座のモスクワのダニーロフ修道院(Danilov Monastery)への遷座が決定された。以後、大修道院は、ロシア正教会における宗教教育の主要なセンターとして位置づけられた。1993年至聖三者セルギイ大修道院(トローイッツェ・セールギエフ大修道院)を中心とする建造物群は、ユネスコによって世界遺産に登録された。 かつて、天井の高い生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)は冬の奉神礼に適さなかったため、夏の間だけ用いられた。このためこれを「夏の聖堂」、もう一方の大聖堂である至聖三者大聖堂を「冬の聖堂」と呼んだ。世界遺産登録後は、生神女就寝大聖堂に床暖房が入り、季節を問わず奉神礼が行われるようになった。 現在、至聖三者セルギイ大修道院(トローイツェ・セールギエフ大修道院)では、いくつかの聖堂を用いて、朝5時から計4つの聖体礼儀が行われている。奉神礼には一般の信者も参加することが出来る。朝5時の奉神礼は、至聖三者大聖堂で行われ、普段はガラスで覆われている聖セルギイの不朽体に直接接吻をする機会が与えられる。このため早朝にもかかわらず多くの信者が参祷する。また修道院の一角にはホテルが設置され、多くの巡礼者がロシア人を中心に集っている。
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ロシア革命後
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「アレクサンドル・グチコフ」の記事における「ロシア革命後」の解説
1917年ロシア革命(二月革命)でゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府が樹立されると、グチコフは陸海軍大臣として入閣した。しかし、外相であったパーヴェル・ミリュコーフを中心に戦争継続が決定されると、これに反対するペトログラードの労働者、兵士たちはデモを行い、ミリュコーフとグチコフは辞任を余儀なくされた(四月危機)。その後もロジャンコら同志とともに強力なブルジョワ政府の樹立を目指し奮闘した。ラヴル・コルニーロフ将軍が軍事独裁を目指しクーデターを起こすとこれを支持したが、クーデターは失敗に終わり、グチコフも逮捕された。しかし、逮捕の翌日、脱出に成功した。十月革命後、国内戦が始まると白衛軍に資金を援助した。白軍の最終的な敗北が決定的になるとヨーロッパに亡命し、1936年2月14日パリで死去した。
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ロシア革命後
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1917年ロシア革命が勃発すると、ストロガノフ家は白軍に参加し、一族は国外に亡命した。ロシア国内の所有地は没収され国有化された。1992年ストロガノフ家のロシアの遺産の保護と修復を主な活動に、アメリカニューヨーク州に非営利法人としてストロガノフ財団が創設された。
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ロシア革命後
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「トルクメニスタンの国旗」の記事における「ロシア革命後」の解説
詳細は「トルクメン・ソビエト社会主義共和国の国旗」を参照 ソビエト連邦時代のトルクメン・ソビエト社会主義共和国の旗は、他のソ連構成共和国同様に赤旗を基調としたものであった。1926年から1937年までは赤旗の左上に鎌とハンマーを配するというソビエト連邦の国旗によく似た旗が使われた。1937年には赤旗の左上に金色のラテン文字で T.S.S.R. と書かれたものが国旗になったが、1940年代にはキリル文字で ТССР (TSSR) と書くように変更された。1953年8月1日、赤地に2本の水色の帯、ハンマーと鎌と星を配した旗が制定された。この旗は、1991年の独立後も新国旗の制定までは継続して使われた。1992年に制定された国旗が現在の旗のもとになっている。1997年と2001年の2度、花輪の付加や絨毯模様の変更などデザイン変更が行われている。 トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の国旗(1919年 - 1921年) トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の国旗(1921年 - 1923年) トルクメン・ソビエト社会主義共和国の国旗(1926年 - 1937年) トルクメン・ソビエト社会主義共和国の国旗(1937年 - 1940年) トルクメン・ソビエト社会主義共和国の国旗(1940年 - 1953年) トルクメン・ソビエト社会主義共和国の国旗(1953年 - 1974年) トルクメン・ソビエト社会主義共和国の国旗(1974年 - 1992年)
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ロシア革命後
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「フェドロフM1916」の記事における「ロシア革命後」の解説
十月革命を経た1918年2月1日、赤軍臨時供給委員会(Чрезвычайной комиссии по снабжению Красной армии)の会合において、コブロフ工場によるマドセン軽機関銃およびM1916の製造再開が決定され、フョードロフは工場の製造責任者に任命された。1918年3月、可及的速やかな量産体制の確立(準備期間は1918年5月1日 - 1919年2月1日とされた)という任務を帯びて、フョードロフはコブロフ工場に到着した。だが、革命と内戦の影響下にあって、2つの自動火器の量産ラインを並行して構築するという任務は困難を極めた。1919年6月22日、デンマークの技術顧問団が撤退し、コブロフ工場はM1916の製造に注力することとされた。最初の発注は9,000丁だった。量産にあたって大幅な再設計が行われ、M1916には特徴的なフォアグリップや25連発弾倉、金属製放熱筒などが追加された。現在よく知られるM1916は、1919年再設計型である。 1919年7月までに設備の導入が完了し、最初の200丁の製造に着手されたものの、7月10日の火災で工場の一部が焼失し、以後の計画に大幅な遅延を招いた。9月15日までに最初の15丁が完成し、年末までに100丁が製造された。1921年4月には量産体制が確立されたものの、半完成部品を輸送する鉄道網が貧弱だったため、月あたりの製造数は50丁程度に留まっていた。また、この時期には器材や材料の質が悪く、銃自体の性能にも悪影響を及ぼしていた。それでも、1922年10月1日から1923年10月1日までの1年間には600丁の製造が計画され、コブロフ工場はそれを超える822丁の製造を達成している。M1916は使用者である赤軍にも高く評価されたが、需要が満たされることはほとんどなかった。内戦後、フョードロフは実戦での評価を踏まえて再設計を行い、M1916は1923年から順次工場に送り返され、改修が行われた。また、1922年から1925年の間には、ドイツ製のものを模倣した銃剣や軽量な二脚、量産のための簡素化された部品など、その他の改良も行われた。 1920年初頭に行われた赤軍狙撃兵編成の改定において、3個分隊から成る1個小隊に対するM1916の配備数は4丁、中隊あたり12丁とされた。M1916は射手に加え、補助、弾薬手の3人(または2人)で運用する兵器とされた。すなわち、従来の軽機関銃と同様の運用が行われたのだが、それらに比べれば、M1916は持続射撃能力や射撃精度の点で大幅に劣った。この一見して不適当な運用は、当時の赤軍における軽機関銃の需要に対し、国内で調達可能な軽量自動火器がM1916以外に存在しなかったことに起因する。軽機関銃と歩兵用自動小銃の中間にあるM1916は、当時存在したいずれの歩兵火器のカテゴリにも含め難く、フョードロフ自身も後に「極めて紛らわしい種類の火器」(довольно путаным типом оружия)と表現している。フョードロフは同時期の他国の銃器設計者と同様、次世代の歩兵銃は従来通りの強力な小銃弾を用いる半自動小銃でなければならないと信じており、自らが設計したM1916は銃口エネルギーが劣るため、歩兵銃を代替しうるものとは考えていなかった。一方、1938年の著書において、「自動小銃(Автоматическая винтовка)──むしろ自動銃(автомат)と称する方が適切だが──は、短機関銃に接近しつつある。……これら2種類の火器は、拳銃弾の能力が大幅に向上した場合、1種の小口径火器(歩兵用自動カービン)に統合される。……20連発弾倉を備えた小口径の自動カービンだ……軽量、小型、取り回しのしやすさで最も優れている。」と述べており、1940年代に生まれる突撃銃の概念を予見してもいた。 1924年4月、赤軍が7.62x54mmR弾を制式小銃弾として改めて採用した。フョードロフはM1916が小規模あるいは特別の部隊(車両乗員、砲兵、騎兵など)に配備される場合、弾薬の消費は抑えられるので、非標準弾を使用していても差し支えがないと考えていた。しかし、実際には軍の主力たる狙撃兵部隊での配備が行われたため、当局は6.5mmの国産化あるいは7.62mm仕様の新型軽機関銃の開発を行わねばならなかった。だが、軍部は直ちにM1916を放棄することを良しとせず、以後も検討を重ね、運用の可能性を探った。最終的な製造終了の判断は1925年10月1日(同年12月1日とも言われる)に下され、合計3,200丁が製造された。製造終了は弾薬の問題よりは、むしろ赤軍が歩兵用半自動小銃の調達を求めたからだと言われている。1920年代後半、赤軍では小銃弾の貫通力が重視されるようになり、この点でわずかに劣る6.5mm弾仕様のM1916は不必要な装備と見なされるようになっていた。 1926年になると、フョードロフのライバルであったトカレフが、かつて試作したモシン・ナガン小銃をショートリコイル方式で自動化する改造プランに改良を加えて再発表したため、赤軍による新たな選定トライアルが開始された。1926年のトライアルでは、新型自動小銃がM1916の役割を継ぐことも期待されていた。だが、結局そのような小銃は生まれなかった。 製造終了後もしばらく赤軍での運用は続いたが、1928年には予備装備となり第一線を離れた。1930年代には保管されていたM1916に対する大規模なオーバーホールが行われた。冬戦争(1939年 - 1940年)の際には、自動火器の不足のため、保管されていたM1916が一部部隊に配備された。記録にある限り、これが赤軍によるM1916の最後の実戦投入であった。 1938年の張鼓峰事件では、ソ連軍と交戦した日本軍がM1916を鹵獲した記録がある。また、冬戦争の終結から半年後に関東軍から当時の阿南惟幾陸軍次官に宛てた報告の中にもフェドロフM1916の退役について記述されている。 M1916はソ連における自動火器の黎明期に設計されたこともあり、運用期間は比較的短かった。しかし、その設計は初期の自動火器に多大な影響を与えたほか、フョードロフの元でM1916の設計に携わった設計者、例えばヴァシーリー・デグチャレフ、 ゲオルギー・シュパーギン、セルゲイ・シモノフらは、いずれも後の自動火器開発を牽引していくこととなる。
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ロシア革命後
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キルギス人が独立した民族として一つの自治体をつくったのは、ロシア革命後の1924年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の管轄下でカラ・キルギス自治州が置かれたことに始まる。その後、キルギス自治ソビエト社会主義共和国(1926年)、キルギス・ソビエト社会主義共和国(1936年)がソ連の構成国としてであるが建てられた。
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ロシア革命後
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「ミールサイト・スルタンガリエフ」および「バスマチ蜂起」も参照 ロシア革命の後、1921年にザカスピ州はトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国内のトルクメン州(ロシア語版)として再編された。1924年には、中央アジアの民族境界画定工作が行われ、ザカスピ州の領域の大部分はトルクメン・ソビエト社会主義共和国に再編され、ウズベク・ソビエト社会主義共和国(タジク自治SSR、カラカルパク自治州(英語版))と分割された。 トルクメン・ソビエト社会主義共和国 → トルクメニスタン ウズベク・ソビエト社会主義共和国・カラカルパク自治州(英語版) → ウズベキスタン・カラカルパクスタン共和国 カラ=キルギス自治州(英語版) → キルギス自治ソビエト社会主義共和国 → キルギス・ソビエト社会主義共和国 → キルギス共和国(キルギスタン)
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ロシア革命後
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「リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟」の記事における「ロシア革命後」の解説
1917年のロシア革命の頃にブンドの党員数は40,000に達していたが、同年末、ポーランドの組織は独自の中央委員会を結成し在ロシア組織から分離した。そしてソヴィエト=ロシア(ソ連)領地域のブント組織は、政治的にはメンシェヴィキに属しながらユダヤ人の文化的自治を主張したが、ポグロムの激化にともなって1920年代初めに多数派は共産党に合流、あるいは弾圧により消滅に向かっていった。 分離した在ポーランド組織は、同国独立後、内部の親ソ連的傾向やシオニズムとの相克に悩まされながらも社会党左派と提携しながら勢力を伸ばし、1930年後半には組織的絶頂を極めブンド系労働組合員は99,000人に達した(1939年)。しかし第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるホロコーストやソ連の弾圧政策によって壊滅的打撃をこうむり、戦後の共産党政権のもとで活動の根を絶たれ、1948年に消滅した。現在はアメリカ合衆国を中心とする国際組織が細々と存続している。
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ロシア革命後
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無線通信、蒸気船、砕氷船の発明により北極海航路は通航可能な海となった。1917年のロシア革命により誕生したソビエト連邦は当初世界から孤立し、北極海航路の利用が避けられなくなった。北極海航路はヨーロッパ・ロシアとソ連極東を結ぶ最短航路であるだけでなく、ソ連の内水を通る唯一の長距離航路であり、対立する国の領域内を通る他の航路の代替となりうる航路だったからである。 北極海航路を管理するソ連の政府機関・北極海航路管理局(英語版)(略称:グラヴセヴモルプーチ、Glavsevmorput)は1932年にオットー・ユリエヴィッチ・シュミット(Otto Yulievich Schmidt)を長官として設立され、北極海航路の航行や北極海の港湾建設などを監督した。1932年夏、オットー・ユリエヴィッチ・シュミット率いるソ連の探検隊は、砕氷船シビリャコフに乗ってアルハンゲリスクからベーリング海峡へ向かい、史上初めて越冬せずに一夏で北極海航路を横断した。シュミットの探検隊は1933年には蒸気船チェリュースキンを使って、史上初めて砕氷船を伴わずに北極海航路を横断する航海に挑むためムルマンスクからベーリング海へと出発したが、9月にベーリング海の入口で氷に閉じ込められ翌年2月に沈み、乗組員は氷原で越冬することを余儀なくされ、春になって航空機で救援された。しかしこの探検によって砕氷船でなくとも北極海航路を横断できるめどが立った。1934年のさらなる試験航海を経て、1935年には北極海航路は正式に開通し商業利用に供された。翌年、ソ連海軍のバルチック艦隊の一部が北極海航路を移動し、日本軍との衝突が予想されていた太平洋沿岸地域へ回航された。
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ロシア革命後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:13 UTC 版)
1917年に起きたロシア革命後、西シベリアや東シベリア、極東などに、白軍やチェコ軍団などに支援された臨時政府や反革命政権が数多く成立した。また極東共和国や沿海州共和国(臨時全ロシア政府、PA-RG)などの諸政府は一時ロシア自体からの独立を宣言した。しかしいずれも長続きせず、ソビエト連邦成立の過程で消滅した。革命直後の1918年から1922年にかけ、日本はアメリカやイギリスなどと共にチェコ軍団救出を口実としてシベリアに兵士を送った(シベリア出兵)。その後、ハルビンにおいて、臨時全ロシア政府の後継としてシベリア独立を目指す西比利亜自治團が生まれた。 またシベリアはロシア帝国時代から流刑地であったが、ソ連もこれを踏襲し数多くのグラグ(強制収容所)をシベリアに作って多くの政治犯を送り込み、鉱山労働や森林伐採などをさせた。第二次世界大戦では独ソ戦(大祖国戦争)の前線となったヨーロッパ・ロシアやウクライナから多数の工場がシベリアへと疎開し、以後シベリアの人口は急速に拡大した。また、独ソ戦においてソ連が攻勢に転じるとドイツ軍など枢軸国軍の捕虜がシベリアの捕虜収容所に送られ、ソビエト参戦後に赤軍に捕らえられた日本兵も同じくシベリア抑留された。戦後の冷戦期もシベリアの大都市は軍需産業を中心にして大きくなっていった。 20世紀に至りアフリカ・アジア諸国の植民地は次々と独立したが、シベリアの先住民族や植民者による独立国家は建設されず、ソビエト崩壊の際もロシア連邦内にとどまった。そのため、いまだ民族独立国家をもたない世界最大の植民地との見方もでき、一部にはシベリアの民族独立を訴える人もいる。ただし、経済的に自立が困難な地域が多いこと、そもそも現在では先住民族よりロシア人の人口比率が高い地域も多いことなどから、チェチェン共和国などのように独立要求が先鋭化している地域はない。 ソビエト連邦の崩壊後、ロシアの経済は低迷し軍需に頼るシベリアの工業都市も人口流出に見舞われたが、シベリアに産する石油や天然ガスの輸出により、2000年代に入りロシア経済およびシベリア経済は大きく持ち直した。
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ロシア革命後
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「アレクサンドロフスキー宮殿」の記事における「ロシア革命後」の解説
ロシア革命が起こると、アレクサンドロフスキー宮殿は臨時政府に接収された。アレクサンドル・ケレンスキーによって、1917年8月1日、皇帝一家はシベリア鉄道によってトボリスクに移送され、幾多の変遷を経て、ボリシェヴィキによってエカテリンブルクで殺害された。 以後、宮殿はソビエト政権によって博物館となる。第二次世界大戦直前、最も貴重な家具、インテリア類は避難している。残りのコレクションの避難が終了しないうちに、独ソ戦が開始され、宮殿はナチス・ドイツの占領下に陥る。戦争中、宮殿は親衛隊本部として使用されて、ドイツ軍の作戦指揮が発せられた。戦争によって、宮殿が誇る貴重なコレクションは半壊を余儀なくされた。レニングラード攻防戦後、宮殿はソ連軍に奪還された。宮殿は博物館へ復元を目ざしたが、一時期、ソ連海軍の管轄下で孤児院となり、ニコライ2世の皇子女の居室がそれに使用された。
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