製造数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 09:20 UTC 版)
陸軍糧秣廠により1931年に制式化された熱量食は、相当数が生産、使用された。 1933年2月4日、陸軍糧秣廠に対し、作戦に備えて2月20日までに関東軍奉天倉庫へ試製熱量食15万個を輸送するよう命令が行われた。このときの熱量食は内容量50gのもので、費用は16,200円を目処とするよう求められた。また昭和8年度北満冬期試験用として、陸軍糧秣廠から関東陸軍倉庫新京支庫へ10,000個が輸送された。 1937年(昭和12年)9月12日、方参三電第五二號において、甲集団参謀長は衣糧課次官へ向け、作戦上の要求により糧食の追送を要請した。内容は熱量食、栄養素などを混合し、20万個を9月下旬までに、50万個を10月上旬までに送り届けるするものだった。これに対し1937年9月13日の甲集団参謀長への電報では、栄養食・熱量食などは9月下旬までに20万個、10月上旬までに25万個を加給品に混合して送付、また栄養食25万個を別に十月上旬までに送付すると回答した。 1938年から1939年にかけて熱量食は制式から外され、後継には軍粮精があてられているが、熱量食の使用自体は続けられた。1940年(昭和15年)1月23日、北支那方面軍用の食糧として、甲集団経理部長は野戦経理長官に対し、2月15日までに酷寒地作戦部隊用の熱量食50,000個、その他の物資を天津へ追送するよう要請した。これに応じ、1940年2月3日、陸軍糧秣廠は北支那軍野戦貨物廠へ熱量食50,000個、携帯甘酒50,000個、調味用乾魚20,000個を追送した。
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