戦中
戦中(1941-1943年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:52 UTC 版)
「日昌丸」の記事における「戦中(1941-1943年)」の解説
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、「日昌丸」は船舶運営会の統制下で運航された。1942年(昭和17年)3月27日午前3時15分頃、門司から大連へ空荷で回航するため巨文島沖.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度56分 東経127度30分 / 北緯33.933度 東経127.500度 / 33.933; 127.500を速力13.5ノットで航行していたところ、アメリカ海軍潜水艦「ガジョン」による魚雷攻撃を受けた。右舷3番船倉付近に魚雷1発が命中して爆発、デリックや船倉蓋が吹き飛ばされ、船体は左舷まで亀裂が生じて切断寸前となった。浸水により船は左舷に23度も傾斜し、船首も大きく沈下したため船尾のスクリューが空中に浮き上がった状態まで陥ったが、後部の5番・6番船倉に注水することで航行可能となり、現地漁船の支援を受けて同日正午頃に巨文島へ自主的に擱座した。被雷直後の混乱の中で救命ボートに乗って退船した船員17人があり、3日後に駆逐艦「朝風」により収容されたが、漂流中に3人が死亡していた。「日昌丸」は、鎮海警備府指揮下から派遣された駆潜艇1隻の警護を受けながら日本サルヴェージにより約1か月がかりで応急修理された後、釜山港の朝鮮重工業釜山ドックで完全復旧された。釜山での工事は、船体を完全切断した後に繋ぎ合わせる大規模作業を要した。 1942年秋に「日昌丸」は戦列復帰した。1943年(昭和18年)3月には日本陸軍により軍隊輸送船として徴用され、パラオ・ハルマヘラ島・ニューギニア島西部方面への輸送任務に従事し、少なくとも以下の護送船団へ加入している。 P502船団で5月2日にパラオ発・5月10日に佐伯港着。 フ407船団で8月4日にパラオ発・8月11日に宇品着。 H1船団で10月10日にマニラ発・ハルマヘラ経由・11月11日にマノクワリ着。
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「戦中」の例文・使い方・用例・文例
- フィンランドは第一次世界大戦中にロシアから独立を勝ち取った
- "15cm sFH 18"はドイツ軍が戦中に開発した重榴弾砲だ。
- 陸軍婦人部隊員たちは第二次世界大戦中に米国陸軍で働いた。
- 彼は米国の農場と鉄道で働いて、第二次世界大戦中の人手不足を緩和するメキシコの労働者として米国に来た。
- 第二次大戦中、彼は砲兵隊隊員として従軍していた。
- 内戦中その国は無政府状態だった。
- ドイツとイタリアは第二次世界大戦中、同盟国であった。
- その国は第二次世界大戦中は中立を保っていた。
- あの家の繁栄は大戦中からのことだ。
- 第二次大戦中に英国は米国と同盟を結んだ.
- 彼はドイツで交戦中捕虜となった.
- 我々は彼らと講和状態に[交戦中で]ある.
- ここは第 2 次世界大戦中の激戦地だった.
- 第二次世界大戦中多くの子供達が田舎に集団疎開させられた.
- 冷戦中西側の保守政党は共産主義への恐れを利用していた.
- 両国は交戦中
- 両軍は交戦中
- 空中戦は欧州戦中の見物であった
- 第二次世界大戦中に兵士によってしばしば使われた頭字語:Situation Normal All Fucked Up(状況はいつも通りすべてがめちゃくちゃ)の意味
戦中と同じ種類の言葉
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