宇喜多氏 宇喜多氏の概要

宇喜多氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 22:14 UTC 版)

宇喜多氏
児文字じもんじ[1][2]
本姓 百済王族子孫(三宅氏藤原氏[注釈 1]
家祖 宇喜多信宗[3]
児島高秀[注釈 2]
種別 武家
平民
出身地 備前国児島半島
主な根拠地 備前国岡山
八丈島
著名な人物 宇喜多能家
宇喜多直家
宇喜多秀家
宇喜多秀臣(現・当主
支流、分家 坂崎氏武家
浮田氏武家
喜田氏
東郷氏
加茂氏
西郷氏稗田氏
三宅氏[5][6][7][8]
水沢氏[3][7]
凡例 / Category:日本の氏族
剣片喰(けんかたばみ)は、日本の家紋「片喰紋」の一種である。

本来は、地形に由来する「浮田」姓だが、嫡流は佳字を当て「宇喜多」(宇喜田)、庶流は本来の「浮田」を称した。通字は代々「」(いえ)、後に「」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている[3]

家紋は剣片喰(剣酢漿草)だが、敵対していた備中国の名族三村氏が古くから剣片喰紋を用いていたためか『兒』文字紋も多用していた。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋も兒文字とされているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。

出自

宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や朝臣を名乗っていた。

なお、宇喜多姓自体は、鎌倉期の『吾妻鏡』や南北朝期の『太平記』等にもその名は確認できず、室町時代において『西大寺文書』に記載された「宇喜多五郎右衛門入道宝昌」[9]とあるのが文献で確認できる初出であることから、守護地頭といった鎌倉時代以降の統治機構に元々は組み入れられていなかった人々により、室町時代に成立した比較的新しい苗字であると考えられている。

以下に、最近の極少数説も含めて概説する。

百済王族子孫の三宅氏後裔説

従来から広く一般に敷衍している通説で、「兒」を旗紋とする百済の3人の王子が備前の島(現在の児島半島)に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわし、後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多(浮田)を名乗ったとするもので、本姓を備前三宅氏(三宅連:新羅王族子孫)とする[10]

この説は、『宇喜多和泉能家入道常玖画像賛』(『宇喜多能家画賛』)の記載に基づくものである。宇喜多氏自身が称した出自であることから、地元岡山県に於いても古くから広く受け容れられ、20世紀末以降に入って出版された岡山県史・岡山市史・倉敷市史など地方公共団体が編纂した歴史書などでも、この説を採っている。

備前岡山藩士・土肥経平が安永年間にまとめた備前軍記では、『宇喜多能家画賛』の全文や宇喜多氏の出自についての諸説を紹介した上で、宇喜多氏の出自を備前三宅氏と結論付け、この備前三宅氏について「(宇喜多能家画賛とは異なり)新羅王族の子孫とするものもある[注釈 3]、古代朝鮮王族の子孫が備前児島の東21カ村を指す三宅郷という地名から三宅連の姓を賜り、後の三宅氏となった」との説を紹介している[11]。なお、備前三宅氏については、備前に置かれていた古代大和王権の直轄地である屯倉に由来するとの説も古くからある。

浮田(宇喜多)姓に相当する地名は、古くに遡っても備前児島には存在せず、地名ではなく地形等に由来する姓であるものと思われるが、岡山県編纂の『岡山県史』では宇喜多氏が本拠とした備前豊原荘一体にはもともと備前児島に由来する三宅氏が分布していたことから、宇喜多氏が本姓三宅氏で三宅氏の支流であることに矛盾はないとする[12]

ただし、児島郡に三宅郷という郷名や三宅連という人名は見られず、三家郷と三家連の誤りと思われるうえ[注釈 4]、三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫であり[13]、宇喜多氏が称する百済王族子孫との整合性に大きな矛盾が生じる。

江戸時代林羅山は『寛永諸家系図伝』において、「蜀漢劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、北宋趙匡胤趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。日本の戦国武将の系図にも同様の例が多い」と述べている[14]

藤原北家閑院流三条家後裔及び百済王族子孫説

一方で、上記の通説とは逆に、宇喜多氏が備前児島半島三宅氏の先祖であるとする極少数説もある(ただし、この説を土肥経平は備前軍記の中で一笑にふしており、江戸期に於いても完全否定されているものであることに注意)。[5][6][7][8]

百済王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将実能(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となり、その系譜を汲む東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)の三家を祖として三宅氏の家の元祖とするものである。一説に、東郷太郎は百済王族の子、加茂次郎と西郷三郎は三条の中将と百済の姫の子とされ、藤原北家閑院流三条家の血を引くとする系図が多数を占める[5][6][7]

なお、三宅姓は古くから確認できるのに対し、宇喜多姓自体は室町時代の『西大寺文書』が文献で確認できる初出である(既述)。

その他の説

他の説として、宇喜多氏を児島高徳の後裔とし、高徳を宇多源氏佐々木氏の一族[15]、あるいは後鳥羽天皇の皇子・冷泉宮頼仁親王の子孫とする説もある。

また、能家自身は朝臣を意味する「平左衛門尉」と称した記録があり[12][16]、宇喜多氏自身の称する本姓にも揺らぎがあったようである。

歴史

室町時代

応仁の乱とそれに続く長い抗争を経て、赤松氏は山名氏を排して播磨備前美作の支配を守護として取り戻していくが、宇喜多氏は、未だ山名氏の影響が残る文明期に、宇喜多寶昌と宇喜多宗家の名が西大寺周辺の金岡東荘に権益を持つ土豪として文献に表れてくる[17]

当初は緩やかに赤松氏の支配に属する在地領主であったが、赤松政権内での守護代別所氏浦上氏の主導権争い、さらに浦上村宗による下剋上の動きの中で浦上氏との紐帯を深め、その軍事力を認められ宇喜多久家の子能家は浦上氏の「股肱の臣」として活動し、多くの戦功を立てた(『宇喜多和泉守三宅朝臣能家寿像賛』)[注釈 5][18]。 しかし、浦上村宗の死もあって一旦没落、能家も殺害された。

これにより宇喜多大和守が残った宇喜多氏の最有力者として浦上政宗に仕えていたが、尼子氏侵攻に伴う政宗と宗景兄弟の分裂抗争の中で没落家系の直家が宗景について下剋上を始め、政宗方の大和守家を倒してその権益を奪取し、のし上がっていく[19][20]

直家

能家の孫直家は、そのようにして浦上宗景の従属的同盟者(傘下の国衆)として台頭する。直家は縁戚をも含めた備前の豪族暗殺などの手段により次々と滅ぼし、宗景と時に敵対し、時に協力しつつ浦上氏を圧迫するまでに成長する。美作に進出した備中三村家親に対しては、正攻法を避け、鉄砲による暗殺に成功(1566年)。三村氏とは数度に亘り干戈を交えるも、ついには備前に進行した三村軍を撃退した。

その後、安芸毛利氏と結び、浦上氏や備中の三村氏に対抗。浦上氏と結び織田氏の誘いを受けた三村氏を毛利氏が滅ぼした後(1575年備中兵乱)、毛利氏の余勢を借りて主家であった浦上氏を滅ぼした(1575年、詳細は天神山城の戦い参照)。東より押し寄せる織田氏に対し、初めは抵抗していた直家であったが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の誘降を受けて織田方に寝返った。毛利氏・織田氏の勢力争いに乗じて才覚を発揮し、ついには備前一国に飽き足らず備中の一部や播磨の一部・美作などにまで勢力を広げることに成功した。まさに下克上の人生であった。

秀家

直家の子秀家は、天正9年(1581年)に父直家が死んだときまだ幼かったため秀吉に育てられ、本能寺の変後に政権を握った秀吉のもとで直家の遺領を安堵され、備前岡山城主となった。秀吉の晩年期には、秀家は五大老の一人となり、備前・美作備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領し、徳川(255万石)・上杉(120万石)・毛利(112万石)・前田(80万石余)・島津(61万石)・伊達(58万石)に次ぐ第七位の大大名で、その絶頂期を迎える。

しかし、豊臣政権での交際や体面の維持は莫大な出費となり、また朝鮮出兵においては主力として渡海し数多くの軍役をこなすことを要求される。そのような、二度に渡る外征の負担は領民と家臣に重くのしかかって軋轢を生み、キリスト教日蓮宗の二派に分かれた家中の宗教対立も加わって、秀吉死後の慶長4年(1599年)にお家騒動が起き、多くの重臣が宇喜多氏を離れて家康に与した。つづく慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成とともに西軍の最大の主力として奮戦するものの、敗北して所領を没収された。

詮家(坂崎氏)

秀家の従兄弟である詮家は、秀家と争って宇喜多家を離れて徳川家康に従った。詮家は関ヶ原の戦いで戦功をあげて石見国津和野に3万石(後に加増され、4万石)を与えられ、姓名を坂崎直盛と改めるが、元和2年(1616年)に改易された。これによって、大名としての宇喜多氏は完全に滅亡した(坂崎氏の一部の子孫は中村姓や先祖の三宅姓を名乗ったと伝わる)。

八丈島への流罪

秀家は辛うじて助命されたが、子息等とともに八丈島に流されて50年間の配流生活を送り、明暦元年(1655年)11月20日にそこで没した。

宇喜多家は八丈島で直系血族は浮田、傍系は喜田などを名乗り、他の流人とは区別されて「浮田流人」と呼ばれ、後に20家に分かれた。秀家正室(豪姫)の実家である加賀藩前田家からの隔年白米70俵と金子35の援助は、明治維新後の明治2年(1869年)に赦免されるまで続いた。

明治3年(1870年)、20家のうち浮田氏7家が八丈島を離れて東京板橋宿の加賀藩下屋敷跡に前田家より土地を与えられて移住した。1873年明治7年)、明治天皇から現在の浦安市に19,900坪の宅地を賜り、同時に前田家から金1,000両も贈られる。

一説には大坂夏の陣の後、加賀藩前田家からその所領のうち10万石の分与による家名の再興を勧められるが、秀家本人の豊臣家への忠誠から徳川幕府に仕えるのを潔しとせず、辞退したとも言われる。

子孫

安政の大獄で捕縛され、宇喜多秀家7世の孫で本性を「藤原」とする、京都の絵師宇喜多一蕙(うきたいっけい)や、俳優浮田左武郎(うきたさぶろう)も秀家の子孫と称していた。

現在の宇喜多宗家の当主は、秀高から12代目[7]の宇喜多秀臣(15代当主)とされており、岡山城築城400年式典の際に岡山県から招待され出席した。また2009年10月25日にも宇喜多堤築堤420周年記念事業における歴史学者による記念講演聴講のために早島町から招待され岡氏・花房氏・千原氏・金光氏の末裔とともに出席している。


注釈

  1. ^ 三宅氏?・藤原北家閑院流三条庶流?・朝臣?・忌寸?・冷泉宮頼仁親王(第82代後鳥羽天皇皇子)後裔・海人族浮田国造直系?などの説があるが真相は不明。
  2. ^ 『備前軍記』は、宇喜多氏の鼻祖を児島高徳の子・高秀とする[4]
  3. ^ 具体的には『日本書紀』、『新撰姓氏録』(右京諸蕃、三宅連)がこの説を採っている。
  4. ^ 和名類聚抄』の備前国児島郡に、三家郷、都羅郷、賀茂郷、児島郷の四郷が記述されており、三宅郷は見られない。平城京跡出土の木簡には「備前国児嶋郡賀茂郷・三家連乙公調塩一斗」と墨書されており、三家郷に関係する三家連乙公という人物がいたことがわかる。どちらも一次資料である。
  5. ^ 赤松・浦上いずれにおいても支配系統に組み込まれたり、一字拝領を受けておらず、直接的な被官にはなっていたかどうかについて異論はあるが『宇喜多和泉能家入道常玖画像賛』にあるように多くは村宗の家臣であったとみなしている。

出典

  1. ^ 「備前軍記」大野信長著『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』学習研究社2009年平成22年)
  2. ^ 沼田頼輔 1926, p. 152.
  3. ^ a b c 鈴木真年『百家系図』巻29浮田,30(宝賀寿男 編著『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年昭和62年)、下巻1670頁)
  4. ^ 岡山市 1922, p.1403
  5. ^ a b c 『吉備群書集成』(一) 吉備 前秘録 巻之上 三 宅の家起、附、宇喜多家傳之事(P489)。
  6. ^ a b c 『新編 吉備叢 書』第二巻 吉備前鑑 下 児島郡古今物語(225頁)。
  7. ^ a b c d e 『戦国宇喜多一族』(立石定夫著、新人物往来社1988年(平成元年)、絶版)「宇喜多氏系図」(備前藩大森景頼所蔵)(P23)。「宇喜多秀高氏子孫系図」(高山不二雄氏)(P402)。
  8. ^ a b 『岡山県児島郡誌』(私立児島郡教育会著、岡山県児島郡役所1915年大正5年))三宅のこと(P96)。
  9. ^ 『西大寺文書』文明元年5月16日条
  10. ^ 『岡山県歴史人物事典』(岡山県歴史人物事典編纂委員会著、山陽新聞社1994年(平成7年))岡山城主・宇喜多氏 (P1138)。
  11. ^ 『新釈 備前軍記』(柴田一著、山陽新聞社、1986年(昭和62年))島村豊後守が宇喜多常玖を殺害の事並びに宇喜多家の事(P98)。
  12. ^ a b 『岡山県史』第5巻中世II(岡山県史編纂委員会著、岡山県1991年(平成4年))宇喜多氏の出自(P183 -)。
  13. ^ 『新撰姓氏録』の大和国諸藩、新羅の項
  14. ^ 林亮勝橋本政宣・斎木一馬『寛永諸家系図伝 第1続群書類従完成会、1980年1月1日、14頁。ISBN 4797102365https://www.google.co.jp/books/edition/寛永諸家系図伝_1/hkC4gvzXLqQC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP32&printsec=frontcover 
  15. ^ 『岡山県児島郡誌』
  16. ^ 『西大寺文書』
  17. ^ 渡邊大門 「戦国初期の宇喜多氏について : 文明〜大永年間における浦上氏との関係を中心に」 『佛教大學大學院紀要』 34号 2006年03月01日 pp.71-84
  18. ^ 大西泰正 『論集 戦国大名と国衆11 備前宇喜多氏』pp.7-19
  19. ^ 森俊弘 「岡山藩士馬場家の宇喜多氏関連伝承について」大西泰正『論集 戦国大名と国衆11 備前宇喜多氏』 pp.203-248
  20. ^ 斎藤夏来「宇喜多能家画像の伝来事情」『岡山地方史研究 145』p.9


「宇喜多氏」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宇喜多氏」の関連用語

宇喜多氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宇喜多氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宇喜多氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS