ルーマニア革命 (1989年)
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ルーマニア革命 (1989年) | |||||||
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ブレヴァルドゥル・マゲルで戦車と対峙する市民(1989年12月) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
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指揮官 | |||||||
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被害者数 | |||||||
死者1290人[2] | 負傷者3321人[3] |
概要
1965年3月にルーマニアの指導者となったニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu)は、前任者のゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorge Gheorghiu-dej)の方針を踏襲する形で、自国ルーマニアをソ連から独立させようとした。チャウシェスクによる指導のもと、外国の資本の参入を認め、国際金融機関から融資を受けたルーマニアは経済成長を見せ、農業国から工業国への転身を果たしたが、1970年代の石油危機が契機となり、ルーマニアの抱える対外債務の額は飛躍的に増大した。1979年に石油価格と開発金融が急激に上昇すると、ルーマニアの産業におけるエネルギー効率の低さにより、債務水準が持続不可能になるほどの状況にまで追い込まれた[4]。対外債務を返済するため、チャウシェスクは農作物や工業製品の輸出量を増やすよう、政府に指示を出した。それに伴って慢性的な物資不足が続き、水、油、熱、電気、医薬品、その他の生活必需品について、ルーマニアは配給制を導入するほどになり[5][6]、国民の生活水準は目に見えて低下していった。その一方で、ニコラエ・チャウシェスクと妻エレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)の二人に対する個人崇拝は前例が無いほどに強まった。
緊縮財政を経て、1988年のルーマニアは輸出が輸入を50億ドル上回った[7]。これは第二次世界大戦終結から初めてのことであった[8]。1989年4月までに、ルーマニアは対外債務をほぼ完全に返済できた[8]。利息も含めた債務額は210億ドルにも達していた[9]。1989年4月12日、ルーマニア共産党中央委員会本会議の場で、チャウシェスクは「ルーマニアは対外債務を完済した」ことを発表した[10][11]。そのうえで、「ルーマニアは、今後一切、外国からの融資を受けない」と宣言した。
1989年12月15日、ルーマニア政府は、ティミショアラ(Timișoara)に住むハンガリー人の牧師に対して教区から立ち退くよう命じた。立ち退き命令に抗議する形で、キリスト教徒たちの集団ができあがり、群衆もこれに加わり、抗議運動は徐々に拡大し、勢いを増していった。ニコラエ・チャウシェスクは非常事態宣言を布告し、ルーマニア共産党中央委員会の建物の内部にあるテレビ放送室で、ルーマニア国民に向けて演説を行った。チャウシェスクはティミショアラの抗議者たちについて「ごろつきの集団」と呼び、「社会主義革命に敵対する者たちである」と非難した。また、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたもの」であり[8][12]、「社会主義の恩恵を潰し、外国人の支配下に置かれていたころのルーマニアに戻さんとする企みである」と訴えた[9]。
1989年12月21日、チャウシェスクは首都・ブクレシュティ(București)にて集会を開催し、集まった労働者たちに向けて演説を行ったが、その最中に騒動が発生し、抗議者・労働者と、軍隊、治安部隊との間で紛争が始まった。1989年12月22日の朝の時点で、チャウシェスクに反対する気運の高まりと抗議行動はルーマニア国内の全主要都市に拡大していた。この日の正午、ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党中央委員会の建物の屋上からヘリコプターに乗って逃亡し、ブクレシュティから脱出してトゥルゴヴィシュテ(Târgoviște)に着くも、その日のうちに軍隊に捕らえられた。イオン・イリエスク(Ion Iliescu)が議長となった救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salvării Naţionale)による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されたのち、銃殺刑に処せられるに至った[13]。
チャウシェスク政権が滅びたのち、ルーマニアでは1990年1月7日に死刑が廃止された[14]。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニアで死刑が執行された最後の存在となった。
その後のルーマニアは、その多くがルーマニア共産党員で構成される救国戦線評議会が政権を掌握し、「国家の運営において暫定的な役割のみを担い」、「自由選挙が実施できるようになり次第、撤退し」、「自らは選挙に立候補しない」と約束した[15]。
ルーマニアは、2004年にNATOに、2007年には欧州連合に加盟した。共産政権のころの計画経済から市場経済へと移行したルーマニアでは、政治家や役人の汚職が目立つようになった。2017年1月31日、汚職額が約4万8500ドル未満の場合、「役人の不正行為については御咎め無し」とする大統領令が発令された。議会からの意見も皆無の状態で発令されたこの法令は、係争中の汚職犯罪に対するすべての捜査を停止し、汚職で投獄されている役人が釈放されることを意味する[16]。ルーマニアでは政治家による博士論文の盗用・剽窃もたびたび報じられる[17]。
また、ルーマニア人の多くが移民として外国に渡った。ルーマニアの政治家たちは、外国に出ていったルーマニア国民を自国に帰国させることがいかに重要かを語っているが、帰還を決意したルーマニア人を社会復帰させるにあたっての手立ては無く、何もしようとしない[18]。国内では不平等も強まり、ルーマニアは依然として欧州の中でも貧しい国であり続けている[19][20]。
ルーマニア国内で実施されている世論調査においては、チャウシェスク政権に対する再評価が見られる[21]。
背景
1965年3月にルーマニアの指導者となったチャウシェスクは、前任者のゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorge Gheorghiu-dej)の方針を踏襲する形で、自国ルーマニアをソ連から独立させようとしていた。ルーマニアの他国への依存度を下げるため、チャウシェスクはルーマニアを農業国から先進工業国に変えようとした。1950年代から1960年代にかけてのルーマニアの工業生産は約40倍に成長した[22][23]。1950年代初頭から、多数の大型機械製造工場や冶金工場が建設され、大型水力発電所も複数建設された。工業化自体は前任者のゲオルギウ=デジの時代から始まってはいたが、それに伴う経済成長は、チャウシェスク治下の初期のころにも続いた。1960年代後半になると、計画経済の様式を維持しつつ、国内の企業の財政と経済の自律性を認め、従業員の仕事に対する物欲的な意欲を高めるための方策も講じた。1970年代には、工業化の成功や外国との貿易の増加により、ルーマニアは経済成長を続けた。ルーマニアは、1973年に西側諸国の資本による合弁会社の設立を許可し、西側の企業がルーマニア国内の市場に参入し始めた[24]。1970年、ブクレシュティの中心部に、ホテル『Intercontinental』が建設された。中央ヨーロッパから東ヨーロッパに連なるカルパティア山脈や黒海には高級な行楽地が建設され、共産圏の市民には手が届き辛い西洋製の商品が購入可能になり、ルーマニア国民は外国製の自動車を購入する機会を得た。また、1970年代にはピテシュティ(Pitești)で自動車「ダチア」(Dacia)を独自に生産する体制が整った。工業化はその後も成果を上げ続け、1974年のルーマニアの工業生産量は、1944年の100倍になっていた[25][9]。1970年代半ばの時点で、国民所得は1938年の15倍になっていた[26]。
ルーマニアは石油産油国でもある。石油生産とその精製、石油化学工業が急速に発展し、1976年のルーマニアの石油生産量は、一日につき、30万バレルに達した[22]。ルーマニアは150を超える国々と貿易関係を築き、1987年の年間貿易額は世界第12位となった。1967年から1987年にかけて9.6倍以上に増加したルーマニアの輸出構造は、加工度の高い製品の輸出が中心となった。これは全輸出の62%を占める。「完成品を輸出してこそ利益が出る」とチャウシェスクは考えていた[9]が、西側市場におけるルーマニアの製品は、他国の製品と比べて競争能力は弱かった[27]。
石油危機と対外債務
1973年10月、サウジアラビア率いるアラブ石油輸出国機構(The Organization of Arab Petroleum Exporting Countries)の国々が石油の禁輸を宣言した。この禁輸措置は、第四次中東戦争でイスラエルを支持した国々が対象となった[28]。この禁輸措置で、世界各国の政治と経済が影響を受け、ルーマニアも例外ではなかった。石油危機と原油価格の高騰が重なり、ルーマニア経済は低迷することとなった。ルーマニアは年間約1000万 - 1100万トンもの石油を生産していたが、1980年代初頭のルーマニアは生産量のほぼ2倍の量の石油を処理していた[10]。石油製品の輸出の拡大と、石油化学産業の需要を満たすため、国内で処理される石油の量は急速に増加した。1982年には2260万トンだったのが、1989年には3060万トンにまで増加した[9]。
急速に経済発展したルーマニアは、自国のエネルギー資源だけでは産業や生産を賄いきれなくなり、外国から石油を輸入するようになった。ルーマニアの石油生産量は、1970年代前半には年平均で10%の伸び率を示していたが、10年後には3%以下にまで下がっていた。ルーマニアが輸出する製品の価格は、西側の製品の3 - 4倍の値段になった。チャウシェスクは別の方法を模索し始めた。ゲオルギウ=デジが実施していた、ルーマニアからの出国を希望する者に対して発行していた許可証を売る手段を思い出したチャウシェスクは、イスラエルへの移住を希望するユダヤ人向けに許可証を発行し、イスラエルはその対価としてルーマニアに養鶏場を5つ建設し、ユダヤ人を迎え入れるごとにルーマニアに手数料を支払っていた[10]。当時、ルーマニアに住んでいたドイツ人が西ドイツに向かう場合、西ドイツはドイツ人一人につき、5000マルク相当の手数料をルーマニアに支払っていた[9]。また、ソ連がルーマニア軍に装備品を供給していたことにも目を付け、ソ連製の「廃止された」武器の試供品をアメリカに販売し、外貨収入を得ていた。かつてアメリカはソ連の「T-72」戦車を購入していた[10]。チャウシェスクは、これらの手段で得た外貨を対外債務の返済に回した[9]。
ルーマニアにおける一人当たりの発電量は、スペインやイタリアのそれよりも多かったが、テレビ放送は1日に2 - 3時間放映されるのみで、集合住宅では15ワットの電球を1つ設置するだけであり、夜になると国中が暗闇に包まれた。一方、チャウシェスクが住んでいた「人民の館」(Casa Poporului)の窓はすべて点灯していた[10]。
1975年、アメリカはルーマニアに対し、貿易における最恵国待遇の地位を与えた[23]。1970年代のルーマニアの経済成長は、最恵国待遇を与えたアメリカの存在や、国際復興開発銀行(The International Bank for Reconstruction and Development, IBRD)といった国際金融機関からの信用供与によるところが大きかった。1975年から1987年の間に、約220億ドル相当の融資がルーマニアに供与され[8]、そのうちの100億ドルはアメリカからのものであった[29]。1971年、ルーマニアは関税および貿易に関する一般協定(General Agreement on Tariffs and Trade, GATT)に正式に加盟した[23]。この年、ルーマニアの産業発展のために国際通貨基金(IMF)から多額の融資を受け、1972年にはIMFとIBRDの正式会員となった。ルーマニアは、1990年以前にこれらの機関に加盟した初めての共産国家でもあった[30]。
ルーマニアは、イランやペルシア湾の国々とも友好関係を結んだ。1979年まで、チャウシェスクはイランのパフラヴィー皇帝から支援を受けており、ルーマニアはイランから石油を定価で買い取っていた[23]。しかし、パフラヴィー皇帝はイラン革命によって失脚し、イスラム原理主義者が権力を掌握した。西側諸国とイランの間で経済関係が断絶し、ペルシア湾では大規模な戦争が続いた。1979年以降、ルーマニアは石油の代金を外貨で支払わねばならなくなった。原油価格は、1979年春の時点では1バレルにつき16ドルだったのが、1980年の春には40ドルに跳ね上がった。西側諸国の政府は、石油危機以降に開発された節約戦略と、石油に代わるエネルギー源の使用を積極的に模索し始め、1980年以降になると、世界は石油および石油製品の長期にわたる需要の減少期に突入することになった。1977年以降、ルーマニアは石油輸入国になった。自国の石油精製産業の発展に向けての全体的な戦略は、低価格を維持し、この燃料の需要を伸ばし続けるよう設計された。1980年代の初頭、石油の購入と石油製品の販売に関連する貿易により、ルーマニアは一日につき、90万ドルの損失を被った[23][22]。
ルーマニアの一部の企業の生産費用は、西側諸国の3 - 4倍にもなっていたが、原油価格が安い限り、これでも問題にはならなかった。しかし、ルーマニア経済は、国の石油埋蔵量の枯渇や世界経済危機に直面した。ルーマニアは対外債務100億ドルを1981年までに前倒しで返済せねばならなくなり、苦境に立たされることとなった[31]。ルーマニアは1980年代に対外債務の返済を開始した。債務の支払い期限は1990年代半ばであった[8]。
西側の政治指導者はチャウシェスクに対し、ルーマニアがワルシャワ条約機構と経済相互援助会議から離脱すれば、ルーマニアを優遇する趣旨を仄めかした。しかし、チャウシェスクはこれを断り、ルーマニアは予定を前倒しして債務と利子を返済する、と宣言した[8][7]。
1983年、チャウシェスクは、ルーマニアが対外債務をこれ以上膨らませるのを禁止するため、国民投票を実施した[27]。対外債務の返済を確実なものとするため、食料品の配給制が始まった。配給券が発行され、一人につき、卵5個、小麦粉と砂糖2ポンド、マーガリン半ポンド[5]で、肉と乳製品も配給制となった[6]。自動車の所有者へのガソリンの販売は「一ヶ月につき30リットル」に制限された。一般家庭で温水が出るのは週に一回だけであった[5]。一日に数回の停電が発生し、「冬の間は冷蔵庫の使用停止」「洗濯機やその他の家電製品の使用禁止」「エレベーターの使用禁止」、これらの節電が呼びかけられた[32]。ルーマニア国内のエネルギー消費量は、1979年と1982年に20%減少し、1983年に50%減少し、1985年にはさらに50%減少した。人々が食べ物を買うために列に並ぶのは、よく見られる光景となった。建物には暖房があっても使用禁止であった。医療は無料ではあるが、薬や設備が慢性的に不足していた[24]。冬季には、冷蔵庫や家電製品の使用は固く禁じられ、住宅では暖房用のガスの使用も禁止された。違反した場合、「経済警察」に摘発され、罰金を科せられるだけでなく、電気やガスも停められた[9]。
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次男のニク・チャウシェスク(Nicu Ceaușescu)は、父に対して「お父さん、この国で何が起こっているのかご存じでしょうか?店はいつも客で溢れており、テレビ放送は1日につき2時間、掃除機と冷蔵庫は経済上の理由から使用を禁止されているのですよ」と尋ねた。それに対して父は、「それらは一時的な窮乏であり、国民は対処できるだろう」と答えたという[33]。
エネルギーの生産量を増やすため、ルーマニアは原子力発電所の建設計画を採用した。この計画の一環として、ウランの貯蔵所が設立され、原子炉を備えた5つの発電装置(発電量700メガワット)を持つ、チェルナーヴォーダ原子力発電所が建設された。カナダとイタリアの協力で、1982年に建設が開始されたが、1986年4月にチェルノーヴィリ原発事故が発生すると、建設が一時的に中止となった。チェルナーヴォーダ原子力発電所は、チャウシェスク政権以降もルーマニアで唯一の原子力発電所として稼働し続けている。
現時点での経済政策は正しいのだ、と国民に納得させるための宣伝活動も盛んに実施された。節電の呼びかけや基本的な必需品に対する配給制の導入について、公式の宣伝では「より合理的に分配する試みである」と説明された[34]。
1980年代には、「経済政策の遂行中に間違いを犯した」との理由で、主要な役職に就いていた者たちが次々に解任された。閣僚評議会議長を務めていたイリエ・ヴェルデッツは、経済危機の解決方法を巡ってチャウシェスクと激しい論争を繰り広げた。ヴェルデッツは、チャウシェスクから「対外経済関係における心得違い」を指摘され、1982年5月21日に辞任した。その後、ヴェルデッツは国家評議会副議長に任命された[35]。
緊縮財政を経て、1988年のルーマニアは輸出が輸入を50億ドル上回った[7]。これは第二次世界大戦終結から初めてのことであった[8]。1989年4月までに、ルーマニアは対外債務をほぼ完全に返済できた[8]。利息も含めた債務額は210億ドルにも達していた[9]。1989年4月12日、ルーマニア共産党中央委員会本会議総会の場で、チャウシェスクは「ルーマニアは対外債務を完済した」ことを発表した[10][11]。そのうえで、「ルーマニアは、今後一切、外国からの融資を受けない」と宣言した。
しかしながら、一連の緊縮財政の結果や、政治的理由による西側やソ連との協力関係の停止により、ルーマニアは経済的破局の瀬戸際に立たされた。厳しい緊縮財政策は、ルーマニアの対外債務の返済の達成につながったが、ルーマニア国民の生活水準に悪影響を及ぼし、物資不足は続いた[36]。対外債務の完済後も、チャウシェスクが発した命令により、ルーマニア製品の輸出自体は続いたが、国内の消費は減る一方であった。それが止まったのは、チャウシェスク政権滅亡後のことであった。
多くの証言によれば、チャウシェスク自身、ルーマニア国民からの人望や強い支持を最後まで信じていたという[37]。しかし、ルーマニアの経済危機が深刻化するにつれて、チャウシェスクに対する不信感が募り、ルーマニア社会では緊張感が高まりつつあった[5]。
個人崇拝
1971年6月、チャウシェスクは中国と北朝鮮を訪問し[10]、毛沢東や金日成と会談した。チャウシェスクは彼らの個人崇拝(Cult of Personality)に強く影響され、中国や北朝鮮の政治体制を模倣するようになったとみられている[38][39][40][41]。1971年7月6日のルーマニア共産党中央委員会政治局本会議総会の場で、チャウシェスクは「七月の主張(Tezele din iulie)と呼ばれる演説を行った[42][43]。基本的な内容は、社会における党の影響力のさらなる強化、学校や大学、児童・青年・学生団体における政治・思想教育の強化、政治宣伝の拡大、党の教育活動と大衆的政治活動の改善、「愛国活動」の一環として主要建設事業への若者の参加の促進、これらに向けて、無線放送、テレビ放送、出版社、劇場、オペラ、バレエ、芸術組合の活動の指針を決める、というものであった。チャウシェスクが書記長に就任したころの自由主義的な政策は終わりを告げ、検閲が復活した。ルーマニアの報道機関は北朝鮮の政治体制に触発され、チャウシェスクを賛美する政治的運動を展開し、これがチャウシェスクに対する個人崇拝の始まりとなった。金日成のチュチェ思想に関する話はルーマニア語に翻訳され、国内で広く配布された。また、チャウシェスクは、国家保安局(Departamentul Securității Statului)および秘密警察「セクリターテ」の権限を大幅に拡大させた。
政権への抗議
1977年6月30日、法令第三号(Legea nr. 3)が制定された。この法律では、鉱山労働者の定年が引き上げられ、障害者年金が廃止された[5]。トランスィルヴァニアの南西部、ジウルイ渓谷にあるルペニ(Lupeni)で働く90000人の鉱山労働者のうち、35000人が1977年8月1日の深夜に操業停止を決定し、労働争議を展開した。もともと安い給料であったことに加え、労働時間がさらに延長され、3月からは残業代は支払われず、休日問わず働くよう義務付けられ、「生産目標を達成できなければ給料から天引き」とされた。労働者たちの貧しい生活環境や、彼らの苦境に対して経営陣がまるで無関心であったことも手伝った。労働者たちは労働時間の短縮や労働環境の改善を要求した。8月2日、労働者たちは、ブクレシュティからやって来た党の代表団を捕らえ、チャウシェスクを連れてくるよう要求した。8月3日に現場に到着したチャウシェスクは労働者たちの怒りを鎮めようとしたが、何千人もの群衆はチャウシェスクの言い分には耳を傾けず、強い抗議で答えた[23]。群衆の中からは「Lupeni '29!」との叫び声の唱和も起こったが、これは1929年8月にも同地で発生した労働争議について言及している。この労働争議の主導者であるコンスタンティン・ドブレ(Constantin Dobre)は、チャウシェスクの目の前で、労働日程、就業規則、年金、物資の供給、住居、投資に関する要求を読み上げた。チャウシェスクは鉱山労働者たちの労働条件と生活状況の改善を約束し、現場から去っていった。1977年12月31日まで、就労障害年金受給者は給料と年金の両方を受け取れるよう決定され、労働時間を8時間から6時間に短縮し、供給を改善するという約束は履行されたが、他の要求に関しては受け入れられなかった。この労働争議に参加した労働者たちの一部は、のちにセクリターテから殴る蹴るの暴行を受けたり、懲役刑を宣告されたりした。また、およそ4000人の労働者が解雇されたという[23]。懲役刑が終わった者たちの多くは治安当局の厳格な監視下に置かれ、何年にもわたって嫌がらせを受けた。
1981年、鉱山労働者たちが再び蜂起し、1982年にはマラムレシュ(Maramureș)で暴動が発生した。1986年から1987年にかけては、クルージ(Cluj)の重工業、冷蔵庫工場で、1987年にはヤーシ(Iași)にある自動車工場、ルーマニア国内の産業の中心地で、大規模な労働争議が続発した。1987年11月15日、並ぶのに疲れ、慢性的な食糧不足に悩まされていた工業都市、ブラショヴ(Brașov)の労働者たちは、給料削減に加えて大規模な人員削減が行われることを知り、市内の中心部に移動した。当初、彼らは「我々は食料と暖房を要求する!」「我々は金を要求する!」「我々の子供たちに食料が要る!」「我々には灯りと暖房が要る!」「配給券無しでパンを買えるようにせよ!」と唱和していた[44]。ブラショヴの市長(ブラショヴ郡党委員会の書記でもある)が姿を現わし、「あと一カ月もすれば、諸君らは諸君らの子供たちと一緒に藁を喜んで食べるようになるだろう」と言った[9]。抗議者たちは市長を殴り、党委員会の建物や市庁舎に闖入した。そこにはさまざまな種類の食べ物でいっぱいの宴席があった[9]。群衆は「この泥棒め!」「チャウシェスクを倒せ!」「共産党を叩き潰せ!」と唱和し、1848年の国歌『目覚めよ、ルーマニア人!』(Deşteaptă-te, române!)を歌った[5]。労働者たちは、建物内の壁からチャウシェスクの肖像画を引き剥がし、これを建物の前の広場で燃やした[9]。この暴動は治安部隊と軍隊に鎮圧されたが、死者が出たという報告は無い。逮捕された者たちは殴る蹴るの暴行を受け、裁判では有罪判決を受け、国内の別の場所に強制送還され、その後も治安当局の監視下に置かれた。
六人による書簡
1989年3月10日、ゲオルゲ・アポストルが起草し、アレクサンドル・ブーラダーノ、コルネリウ・マネスク、グリゴーレ・イオン・ラチャーノ、コンスタンティン・プルヴォレスク、スィルヴィオ・ブルカンが署名した文書が発表された。これはチャウシェスクによる一連の政策を非難する内容であった[11]。「ニコラエ・チャウシェスク大統領閣下。我らが社会主義の理念そのものが、あなたの政策が原因で信用を失い、我が国がヨーロッパで孤立しつつある現状を受けて、我々は声を上げることに致しました」との言葉で始まるこの文書は「六人による書簡」)と呼ばれ[45]、1989年3月11日にBBCテレビとラジオ・フリー・ヨーロッパ(Radio Free Europe)でも取り上げられ、放送された。1989年3月13日、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議の場でこの書簡が議題に上がった。チャウシェスクは、ルーマニア国民が外国人との関係を維持できる条件をより厳格にするよう決定したうえで、これに署名した者たちを「国家に対する裏切り者」と認定した。ゲオルゲ・アポストルをはじめ、書簡の作者たちは逮捕され、尋問され、自宅軟禁下に置かれた。
ルーマニア生まれの歴史学者、ヴラディミール・ティスマナーノによれば、この書簡はルーマニア国民に幅広く支持されたわけではないが、チャウシェスク政権の抑圧体制の暴露とその崩壊につながった、という[46]。また、ティスマナーノは「『六人による書簡』は、反全体主義の宣誓書というわけではなく、チャウシェスクの独裁の濫用に対する党の旧親衛隊による反乱の叫びであった。これは遅きに失した反乱であり、イデオロギーに関連するものに限定され、政治との関連は無かった」と書いた。署名者の1人であるスィルヴィオ・ブルカンについて、「彼はチャウシェスクを公に批判することは無かった。ブラショヴで蜂起が起こるまで、ブルカンはこれを遵守した。その後も党の指導的役割に対して反対の姿勢は見せなかった。彼はチャウシェスクの個人崇拝の行き過ぎと、『レーニン主義の規範』からの逸脱が見られた時にだけ、異議を唱えた」「決して反体制派というわけではなく、ルーマニア共産党内では派閥主義者に過ぎなかった。彼は自由民主主義を信じてはいなかったし、多元主義を大切にする人物でもなかった」と書いた[47]。
ルーマニア共産党14回党大会
1989年10月ごろから、チャウシェスクによる権力の濫用について書かれた内容の書簡が国中に出回るようになっていた。学者、作家、共産党の幹部が署名しており、その中には、のちの救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salvării Naţionale)の議長を務めることになるイオン・イリエスク(Ion Iliescu)の名前もあった[48]。それには、「11月に開催される第14回党大会で、チャウシェスクを再選させてはならない」「この狂人夫婦に抗議の声を上げよ」との趣旨が書かれていた。1989年11月20日から11月24日にかけて、ルーマニア共産党第14回党大会が開催された。11月20日、党大会に出席したチャウシェスクは6時間に亘って報告書を読み上げた。11月24日、チャウシェスクは全会一致(3308票中3308票)でルーマニア共産党書記長に再選された[49]。チャウシェスクは、共産党書記長を含めたすべての役職に再選された。会場にいた者たちはその場で総立ちし、チャウシェスクに対して一斉に拍手喝采を送った[48]。
ソ連
1985年3月11日、ミハイル・ゴルバチョフ(Михаи́л Серге́евич Горбачёв)がソ連共産党の書記長に選出された。1986年4月8日、トリヤッチを訪問していたゴルバチョフは、「政治的および経済的な変革」を意味する言葉として、「ペレストロイカ」(Перестро́йка)という単語を初めて使った[50]。のちにゴルバチョフは、「グラースノスチ」(Гласность)と呼ばれる改革の実施にも着手した。これは報道における検閲の緩和と、情報の積極的な公開である。チャウシェスクは、ゴルバチョフが打ち出したペレストロイカを批判した[26]。それまでも理想的とは言い難い状況にあったルーマニアとソ連の関係は、これによってさらに悪化した。1989年8月23日、ルーマニアで行われた「ファシスト占領解放45周年記念式典」に出席したチャウシェスクは、「ルーマニアでペレストロイカが行われるよりも、ドナウ川が逆流する可能性のほうが高いだろう」と発言した[7][29][51]。
チャウシェスクは第14回党大会の場で、ミハイル・ゴルバチョフが推進するペレストロイカについて、「社会主義を崩壊させ、ひいては共産党の崩壊につながる」と公然と批判した[7]。これ以降、ソ連はチャウシェスクのことを「独裁者」「スターリニスト」と呼び始めるようになった。さらに、1988年以降、アメリカとイギリスの報道機関が「チャウシェスクの存在は、西側にとってもゴルバチョフにとっても問題になりつつある」「ルーマニアが『ペレストロイカ』に反対するすべての社会主義国を結集させる可能性がある」と報じるようになった[7]。1988年10月、チャウシェスクはモスクワでゴルバチョフと会談し、その会談で「ルーマニアは、社会主義の段階的な撤廃を意味する『ペレストロイカ』を拒否した」と報道された[7]。
1989年12月4日、ワルシャワ条約機構に加盟する国々による首脳会議がモスクワで開催された。この会議で、ブルガリア、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ソ連の首脳による共同宣言が採択された。
「1968年のチェコスロヴァキアに対する軍事介入は、主権国家に対する内政干渉であり、非難されなければならない」「国家間の関係において、国家の主権と独立の原則は厳格に尊重されるべきである。極めて複雑な国際情勢においても、それがいかに重要であるかは歴史が証明している」[52]
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しかし、ルーマニアは軍事侵攻に参加しなかったため、この共同宣言には署名しなかった[52]。1968年8月16日、チャウシェスクはプラハを訪問し、チェコスロヴァキア共産党第一書記、アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubček)と会談し、友好、協力、相互扶助の条約に署名した[9]。ソ連がプラハに攻め込んだあとの1968年8月21日、ブクレシュティにて国民集会が開催され、それに出席したチャウシェスクは「チェコスロヴァキアへの侵攻は甚だしい間違いであり、ヨーロッパの平和と社会主義の運命に対する重大な脅威であり、革命運動の歴史において恥ずべき汚点を残した」「兄弟国の内政への軍事介入は到底許されるものではないし、正当化もできない。それぞれの国において、社会主義をどのようにして構築すべきか、部外者にはそれをとやかく言う権利は無いのだ」と述べ、強い調子でソ連を非難した[29][9]。
この首脳会議に出席したニコラエ・チャウシェスクはソ連に対し、東ヨーロッパおよび中央ヨーロッパのすべての国々、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ドイツからソ連軍を撤退させるよう要求した[52]。ゴルバチョフとチャウシェスクによる最後の会談に同席していたチャウシェスクの軍事顧問で閣僚評議会第一副議長、イオン・ディンカによれば、二人の会話には「下品な言葉だけが欠落していた」という。ペレストロイカについて、チャウシェスクは「いかなる改革政策も実施しない」と拒否し、それに対してゴルバチョフは「極めて深刻な結果をもたらすだろう」と述べ、チャウシェスクを精神的に追い詰めたという[53]。
チャウシェスクと西側の関係は、1980年代に著しく悪化した。1987年以降、チャウシェスクは経済相互援助会議の加盟国やG7諸国への訪問を拒否され、1988年には貿易における最恵国待遇からも外された[7]。
チャウシェスクは、1989年の秋から冬にかけて、世界各地からの代表団に会い、取材に応じた。この間にルーマニア国内のさまざまな企業を訪問し、そのたびに称号を授与された。生産担当班から話を聞き、チャウシェスクは国内の情勢について多くのことを知っていたという[48]。
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