ルーマニア革命 (1989年)
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1989年12月
12月15日
ティミショアラ
1989年3月20日、ミッシェル・クレアとレジョン・ロイ(Réjean Roy)、二人のカナダ人が、ティミショアラ(Timișoara)に住むハンガリー人の牧師、トゥーケーシュ・ラースロー(Tőkés László)を訪問し、密かに持ち込んだカメラでトゥーケーシュを取材し、録音した。3人のハンガリー人がカメラの持ち込みを支援し、その間、彼らはセクリターテから追跡されていた[54]。3月31日、司教のポップ・ラースロー(Papp László)はトゥーケーシュにティミショアラでの説教行為を止め、孤立した教区があるミネウ村(Mineu)に移住するよう命じたが、トゥーケーシュはこれを拒否し、彼の信徒たちもそれを支持した。
1989年7月24日、ハンガリーの国営テレビの調査番組『パノラマ』が、3月に実施されたカナダ人によるトゥーケーシュへの取材映像を放送した。この二日後、ポップ司教はトゥーケ-シュに書簡を送り、「トゥーケーシュ・ラースローは面談の中でルーマニアの国家に対して名誉棄損となる言葉を述べ、嘘まで吐いた」と非難し、トゥーケーシュの追放を命じた。カナダの『トロント・スター』紙は、「この取材映像の公開が、1989年12月の一連の出来事を誘発する契機となった可能性がある」と書いた[55]。ポップ司教はトゥーケーシュを教会の集合住宅から追い出すため、民事訴訟の手続きを開始した。トゥーケーシュの自宅の電気は止められ、食糧配給手帳も没収されたが、教区の住人はトゥーケーシュを支援し続けた。ルーマニア政府当局は数人を逮捕し、殴打した。1989年9月14日、ハンガリー人のエルノ・ウユヴァロシー(Ernő Ujvárossy)が、ティミショアラ郊外の森の中で遺体で発見され[56][57]、トゥーケーシュの父親も一時的に身柄を拘束された[58]。エルノの死は、「治安部隊による政治的暗殺」と見られている[56]。1989年7月にハンガリーが放送したトゥーケーシュへの取材映像の中で、トゥーケーシュは、「ルーマニア人は自分たちの人権さえも知らないのだ」と発言していた。2008年にドイツで放送された鉄のカーテンを題材にしたテレビ番組の中で、トゥーケーシュは以下のように語っている[59]。
「 | この真意は、独裁者であるニコラエ・チャウシェスクを支持する必要は無いのだ、と伝えることにありました。チャウシェスクの仮面を剥ぎ取るために、どうしても必要であったのです。一般のルーマニア人やセクリターテにも衝撃を与えた模様です。あの当時、外国のテレビ放送の視聴は禁止されており、この映像はルーマニアとハンガリーの国境付近でのみ、視聴できました。この映像を観た人は誰もが衝撃を受け、とりわけ、映像はトランスィルヴァニアで広まり、ルーマニア国内の空気と世相に、思いも寄らぬ形で影響を及ぼしたのです。 | 」 |
1989年10月20日、ティミショアラ裁判所は、トゥーケーシュの立ち退きを命じる評決を出し、トゥーケーシュはこれに控訴した。11月2日、刃物で武装した4人の人物がトゥーケーシュの自宅に押し入った[57]。セクリターテの諜報員が見守る中、トゥーケーシュとその友人たちは襲撃してきた者たちを撃退した。ルーマニアの特命全権大使はハンガリーの外務省に召喚され、ハンガリー政府はトゥーケーシュ・ラースローの身の安全を心配している趣旨を告げられた。11月12日、何者かが教区の建物の窓を割った[57]。11月28日、ティミショアラ裁判所はトゥーケーシュによる控訴を棄却し、トゥーケーシュは1989年12月15日に正式に立ち退くことになった[60][58]。1989年12月11日、トゥーケーシュは郡の党委員会に呼び出され、「立ち退きの日が12月18日の月曜日に変更されたことを教区の住民に伝えるように」との指示を受けた。しかし、礼拝が行われるのは日曜日であり、12月15日は金曜日であったため、トゥーケーシュは立ち退きが延期された話を伝えることができずにいた[60]。
12月15日夜8時頃、教会の建物の前に、黒いダチア車が止まり、ティミショアラの市長、ペトレ・モーツ(Petru Moţ)が現れ、トゥーケーシュと対話した。教区民たちは、トゥーケーシュの自宅の外で哨戒を始め、移動命令を受けるも拒否した。教区では「人間の鎖」が形成され、民兵はこれに立ち入ることができなくなった。トゥーケーシュは教区民たちに感謝の言葉を述べたうえで、立ち去るよう伝えたが、トゥーケーシュの自宅近くには、トゥーケーシュを守ろうとする集団ができあがっていた。トゥーケーシュの妻・エディートは妊娠中で、体調を崩した。
12月16日
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12月16日、かかりつけの医師がエディートの診察に訪れ、そこから30分も経たないうちに、ペトレ・モーツが三人の医師を引き連れて現れ、エディートを病院に連れて行くように説得するも、かかりつけの医師はそれを拒否するよう彼女に伝えた[61]。その後、作業員が到着し、襲撃者が壊した窓と玄関の扉を修理した。トゥーケーシュの元を訪れる人々の数はさらに増えていき、いつしかルーマニア人も教区民の群衆に加わっていた。トゥーケーシュはペトレ・モーツと会話したのち、再び群衆に去るよう伝えたが、教区民たちはその場に留まっていた。一旦去ったのち、再び戻ってきたモーツは、「トゥーケーシュが立ち退かされることは無い」趣旨を約束した。群衆の中には、トゥーケーシュの立ち退き命令を書面で撤回するよう要求した人物も出た。ペトレ・モーツは一時間以内にそうする趣旨を約束したが、彼が実際にそうするつもりだったとしても、結局それは不可能であることが判明した。立ち退き命令についてはどうにもならなかった[60]。市長や副市長との交渉や、複数の団体が姿を見せたのち、ペトレ・モーツはトゥーケーシュに対し、「午後5時までにこの群衆を解散させなければ、消防隊による放水銃で攻撃する」との最後通告を出した。トゥーケーシュは群衆に解散するよう懇願したが、トゥーケーシュがセクリターテから脅迫を受けている、と確信したのか、群衆は改めてそれを拒否した。群衆は、自宅から出て、通りに姿を現わすよう手招きするも、トゥーケーシュはこれを拒否した。これについて、歴史家のデニス・デリータントは、「トゥーケーシュは、自分が『抵抗組織団体の指導者』と判断されるのを恐れたのだろう」と書いた[62]。
時刻は午後5時を迎えたが、放水銃による攻撃は行われなかった。午後7時までに、複数の区画に亘って群衆の規模は拡大していた。地元の工科大学の大学生や、ハンガリー人とルーマニア人が手に手を取り合い、「人間の鎖」を形成していた。当初、彼らは讃美歌を合唱していたが、午後7時30分、ルーマニアの国歌である「目覚めよ、ルーマニア人!」の斉唱が始まった[63][60]。この国歌は1947年に斉唱行為を禁止されており、先述の1987年11月15日にブラショヴで労働者たちが起こした反乱の際にもこれが歌われた[5]。
トゥーケーシュへの立ち退き命令に抗議する意味で、蝋燭を灯した人々が現われ、抗議は拡大を続けた。午後9時、セクリターテの長官、ユリアン・ヴラードはこの反乱を鎮圧するため、上級作戦部隊をティミショアラに派遣した[64]。抗議者たちはティミショアラ正教大聖堂(Catedrala Mitropolitană din Timişoara)の周辺を移動し、市内を行進し、治安部隊と再び対峙した。いつしか群衆は「チャウシェスクを倒せ!」「政権を倒せ!」「共産主義を叩き潰せ!」と唱和し始めた。群衆は別の場所へ移動し、橋を渡り、共産党本部の建物がある市街地へと向かい、石を投擲した。午後10時ごろ、民兵が彼らを教会へと追い返し、放水銃による水攻めが始まった。しかし、群衆はそれを奪い取って解体し、その部品を、ベガ川(Râul Bega, ルーマニアとセルビアの間を流れる川)に投げ捨てた[65]。午後9時から午後11時30分にかけて、民兵、諜報員、消防士、国境警備隊で構成された部隊が180人を逮捕した[64]。デニス・デリータントは、「このハンガリー人の抗議運動は、今やルーマニア人の反乱へと変わった」と書いた。
12月16日の日中までに、教会の前にプロテスタントの信者の集団ができあがり、ティミショアラでは通行人がこの集団に加わり、群衆は徐々に規模を増していった。ペトレ・モーツがトゥーケーシュの立ち退き命令に反対する旨を文書で確認するのを拒否すると、群衆は反共主義の標語を唱和し始めた。聖マリア広場では路面電車が止められ、イオン・モノラン、ダニエル・ザガネスク(Daniel Zăgănescu)、ボールビー・ラースローらが、反共産党を訴える演説を行った。ダニエル・ザガネスクは路面電車に乗り、「Ma numesc Daniel Zăgănescu si nu mi-e frica de Securitate. Jos Ceausescu!」(「私はダニエル・ザガネスクと申します。私はセクリターテなぞ恐れてはいない。チャウシェスクを倒すのだ!」)と叫んだ[66]。
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12月17日
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12月17日、ニコラエ・チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時会議を招集し、トゥーケーシュ・ラースローについて言及し、「ある改革派の司祭が、彼自身のせいで制裁を受けた。ティミショアラから別の郡に移り、住んでいた家を去らねばならない、というものである。彼は自宅を明け渡すことを望まなかった。司教は裁判所に訴え、裁判所は彼を立ち退かせる決定を下した。これには長い時間を要した。昨日、裁判所命令が執行されようとしたが、司祭は団体を組織した。これはブダペストを始めとする外国の諜報組織による妨害である。彼は外国からの取材にも応じているのだ」と述べた[67]。
12月17日午前9時、陸軍参謀本部の工作員の集団が市内に到着した。午前11時、ティミショアラでの抗議運動の参加者は、いつしか数千人にまで膨れ上がっていた。中心部にある本屋の窓ガラスが割られ、チャウシェスクを賛美する本は酷く損壊された。国防大臣で将軍のヴァスィーレ・ミーラ(Vasile Milea)は、ティミショアラ市内にあるルーマニア共産党本部の建物を守るよう指令を出した。午後1時30分、ミーラは「ティミショアラの状況は悪化の一途を辿っています。軍による介入命令をお願い致します。軍は戦闘状態に突入します。ティミショアラ郡にて非常事態が進行中です」と報告した[64]。軍隊に対して命令を出せるのは、法的にはニコラエ・チャウシェスクだけであった。チャウシェスクは、ユリアン・ヴラードに2回、ヴァスィーレ・ミーラに少なくとも6回電話し、ティミショアラでの暴動を腕ずくで迅速に鎮圧するよう指令を出した[68]。午後1時45分、ティミショアラの通りに戦車が現われた。チャウシェスクは将軍のイオン・コーマン(Ion Coman)を司令官に任命し[69]、午後3時30分、国防省と内務省の将官の代表団がティミショアラに派遣された。
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午後4時頃、抗議者たちは郡の党委員会の建物に闖入し、党の文書、宣伝用の小冊子、チャウシェスクの著書、共産党の権力の象徴であるこれらを窓から次々に投げ捨てた。彼らは建物に火を付けようとしたが、これは軍の部隊に阻止された。午後4時30分、チャウシェスクは、ブクレシュティにてルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時会議を招集し、ティミショアラでの出来事について、国防大臣たちと議論し始めた。チャウシェスクは、反乱の鎮圧を躊躇したトゥドール・ポステルニク、ヴァスィーレ・ミーラ、ユリアン・ヴラードを非難した[69]。チャウシェスクはヴァスィーレ・ミーラに対し、「ミーラよ、あなたの部下は何をしていたのか。なぜすぐに介入しなかった? なぜ撃たなかった? 部下に足元を撃たれてもおかしくないはずだ」と質問した。ミーラが「私はいかなる種類の弾薬も与えませんでした」と答えると、チャウシェスクは「なぜ与えなかったのか? そんなことなら、部下を家に帰したほうがましだ」と非難した[67]。チャウシェスクは、治安部隊に対して発砲命令を出さなかったユリアン・ヴラードに対し、怒りを込めて応酬した。「あなたのやったことは、国家の利益、人民の利益、社会主義の利益に対する裏切りだ。責任ある行動を取らなかったのだ」「あなたにいかなる処罰を与えるべきか、分かるか?銃殺刑だ。それこそがあなたにふさわしいのだ。あなたのやったことは、敵と手を結んだも同然の行為だからだ!」[68]
ヴァスィーレ・ミーラは、チャウシェスクから抗議者を撃てとの指令を受けたが、ミーラはこれを陸軍部隊に伝令するのを拒否した。ミーラは「軍規を確認しましたが、人民軍は人民を撃ち殺せ、との記述がある項目はどこにも見当たりませんでした」と発言した[68][70]。
チャウシェスクは、反逆者を撃つよう命じた。この命令を出したチャウシェスクに対し、国防大臣、内務大臣、セクリターテの長官は初めて反対を表明した。チャウシェスクは、自分に対する彼らの忠誠と服従を疑い、3人に対して「役職を解任する」と発言したが、閣僚評議会議長のコンスタンティン・ダスカレスクはこれに反対し、彼ら3人への支持を表明した。チャウシェスクは怒りを露わにし、「ならば私は書記長を辞任する。別の人物を書記長に選出するが良い!」と言い、会議室から出て行った[9]。エミール・ボブとコンスタンティン・ダスカレスクがチャウシェスクのあとを追いかけ、部屋に戻るよう懇願した[69]。数分後、チャウシェスクは会議室に戻り、会議を続けた。
チャウシェスクは、「内務省の部隊、国防軍の部隊、いずれも警戒態勢、戦闘態勢に切り替えよ。敵がいかなる行動に出ようとも、徹底的に粛清せよ」[64]、「ティミショアラでは本部が攻撃を受けたのに、何の反応も起こらなかった。頬を打たれたら、もう一方の頬も差し出そうというのか。あたかもイエス・キリストではないか」「人文主義とは、人民、国家、社会主義を守ることである。敵に屈従したり、敵と協定を結ぶことではない。全ての部隊は戦闘用の弾薬を装備せよ」「共産党郡委員会の建物に無断で立ち入った者は生かして帰すな!」[71]と述べ、一時間以内にティミショアラの秩序を復元するよう命令した[71]。チャウシェスクはティミショアラでの抗議運動を鎮圧するための武力行使を要請し、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会はこれを正式に承認した。チャウシェスクはティミショアラの代表者と緊急の電話会議を行った。午後5時30分、チャウシェスクは抗議者に対する発砲命令を出した[72][9]。
午後6時、ジロクルイ(Girocului)にて、参謀総長のシュテファン・グーシャ(Ştefan Guşă)の命令により、道を塞がれた戦車を回収する名目で、抗議者に対して発砲が始まった。午後6時45分ごろ、ティミショアラの部隊は、信号「Radu cel Frumos」を受けた。これは「軍隊に戦争弾薬を装備させ、戦闘態勢に切り替えよ」との指令であった[64]。ティミショアラでは、国防省の部隊による発砲がついに開始され、数時間で300人を超える人々が撃たれた[64]。
午後8時過ぎ、デチェバル橋、リポヴェイ通り、ジロクルイ通りを含む自由広場からオペラ座の建物に向けて銃撃が行われた。戦車、トラック、装甲車両が市内への立ち入りを阻止し、ヘリコプターが上空を監視巡回していた。深夜を過ぎると、抗議活動は一旦沈静化し、イオン・コーマン、イリエ・マーテイ(Ilie Matei)、シュテファン・グーシャが市内を視察した[69]。
12月18日
12月18日午前5時30分、ティミショアラの部隊の司令官、イオン・コーマンは、現地の状況について「取り締まりの最中にあります」とブクレシュティに報告した[64]。ティミショアラの中心部は兵士と治安部隊が警備していた。ティミショアラ市長のペトレ・モーツは、前日の「破壊行為」を非難する目的で、大学キャンパスでの党会議の開催を要請した。12月18日、ティミショアラには戒厳令が敷かれ、2人以上の集団での移動は禁止された。その禁止令を無視する形で30人の若者の団体が黙って厳粛にティミショアラ正教大聖堂に向かった。彼らは建物の階段で立ち止まると、共産主義を象徴する紋章を切り取った状態の三色旗を広げ、蝋燭に火を灯して静かに待機していた。その後、彼らは「目覚めよ、ルーマニア人!」を歌い始めた。午後5時、将軍のミハイ・チツァックは兵士たちに発砲を命じ、自らも民間人に向けて発砲した。7人が死亡し、98人が負傷した[64]。治安部隊が彼らに向けて発砲し、負傷者と死亡者も出たが、残りはその場から逃げ出した[69]。この24時間で、ティミショアラでは66人が死亡し、300人近くが負傷した[64]。
ニコラエ・チャウシェスクは、「テロ行為、破壊行為、公共財産の破壊による重大な公序良俗違反」を理由に、ティミショアラにて非常事態宣言を布告することにした[69]。この日、チャウシェスクにはイランを訪問する予定があった。午前8時15分、チャウシェスクは政府の指導部を自宅に呼び寄せ、面会した。チャウシェスクは「イランへの訪問を取り消す必要は無い」と判断し、テヘランに出発した[64][72]。午前9時30分、チャウシェスクの搭乗した大統領専用機が離陸し、黒海の上空を飛行していった。ミグ戦闘機が4機、護衛に当たった。12月20日にチャウシェスクが帰国した際にも同様であった。チャウシェスクには、セクリターテ第五治安総局長のマリン・ナゴエと、外務大臣のイオン・ストイアンが付き従った。
12月19日
12月19日、ラドゥ・バランとシュテファン・グーシャがティミショアラにある工場を訪問し、労働者たちに対して作業を続けるよう説得したが、失敗に終わった。照明器具の会社「ELBA」の建物付近にいた労働者に対し、軍隊が発砲した。午前7時から午後12時、数千人の労働者が街頭に繰り出していた。ティミショアラでの抗議運動はもはや止めることが不可能になっていた。午後1時50分、シュテファン・グーシャは兵士たちに対し、兵舎への撤退を命じた[64]。
12月17日から18日の夜にかけて、ティミショアラの郡病院にて、撃たれて死亡した者たちの遺体が安置された。12月19日、エレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)とイオン・コーマンの命令に基づき、遺体安置所に安置されていた58体の遺体のうち、43体が冷凍トラックに積まれ、ブクレシュティに移送された。彼らの遺体はチェヌーシャ(Cenuşa)で火葬され[69]、その遺灰はポペシュティ=レオルデニ(Popeşti-Leordeni)の水路に投げ捨てられた。弾圧された痕跡を残さないようにするのが目的であった。エレナ・チャウシェスクはこれを「Operaţiunea Trandafirul」(「バラ作戦」)と名付けた[64]。遺体の消失については、「各人が不正に国を離れ、近隣の国々に逃亡した」と説明された。
12月20日
12月20日午前9時、数万人の抗議者の集団が、ティミショアラの中心部にある劇場広場を占拠し、「自由を!」「神がおわします!」「軍隊は我々の味方だ!」「恐れることはない、チャウシェスクを倒せ!」と唱和し始めた。午後12時、ティミショアラの中心部には、およそ15万人の抗議者がいた。彼らは兵士に差し入れを送った。午後12時30分、抗議者数人が劇場の桟敷を開放し、その直後に「主の祈り」の唱和が始まった。拡声器を通じて「ティミショアラは共産主義から解放されたルーマニアの最初の都市である」と宣言された。午後2時30分、閣僚評議会議長のコンスタンティン・ダスカレスクがティミショアラに到着した。抗議者たちは、国の指導者の立場にある者たち全員の辞任、自由選挙、ティミショアラでの殺害の責任者を裁判にかけるよう要求した[64]。劇場広場に集まった群衆の中から数人が劇場の建物内に入り、集まった群衆に向けて演説した。この日、「ルーマニア民主戦線」が設立され[73]、その議長にはロリン・フォルトゥーナが就任し、クラウディオ・イオルダーケが群衆を指導する立場になった。
イランを訪問中のチャウシェスクは、自国からの連絡を受けて急遽帰国するに至った。午後5時、イランから帰国し、状況がますます悪化していることを知ったチャウシェスクは、ヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクをティミショアラの司令官に任命するとともに、非常事態宣言を布告した[64]。午後7時、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会の建物の内部にあるテレビ放送室で、ルーマニア国民に向けて演説を行い、ティミショアラで発生した出来事について、「非常に深刻な事態だ」とし、ティミショアラの抗議者たちについて「ごろつきの集団」と呼び[69]、「社会主義革命に敵対する者たちである」と非難した。チャウシェスクはまた、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたもの」であり[8][12]、「社会主義の恩恵を潰し、外国人の支配下に置かれていたころのルーマニアに戻さんとする企みである」とも訴えた[9]。チャウシェスクは、「ごろつきどもは、国を不安定にし、領土を分断し、国家の独立と主権を破壊し、社会主義の発展の破壊と外国人による支配下の時代への回帰を目的とし、『ファシスト型』の破壊を惹き起こしている。計画的にもたらされた現在の状況は、ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻に似ており、外国の工作員と『はした金で国を売る』内部のルーマニア人による協力のおかげで可能となったのだ」と演説した[69]。
12月20日の夜、チャウシェスクと治安部隊の幹部との間でテレビ会議が実施された。チャウシェスクは、「チャウシェスクを支持する、公認済みの無産階級5万人」で構成された特別自衛部隊を創設して首都に集め、暴徒に立ち向かうよう党指導部に指示を出した[12]。チャウシェスクは、21日にブクレシュティで「社会主義の利益を守る」ための「人民集会」(Adunare Populară)を開催し、国民に直接語りかけることにした。
12月21日
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12月21日、オルテニアの工場の労働者を乗せた列車がティミショアラに到着した。チャウシェスク政権は彼らの存在を利用して抗議運動を鎮めようとしたが、この労働者たちはティミショアラの抗議者たちと合流することになった。ある労働者は、「昨日、工場の責任者と党の幹部が私たちを中庭に集め、木の棒を渡し、『ごろつき集団とハンガリー人がティミショアラを荒らしている。現場に出動して抗議運動の鎮圧を手伝うのが我々の義務だ』と聞かされました。実際には、それは事実ではないことが分かりました」と語った。
チャウシェスクによる演説
午前9時、首都・ブクレシュティの中心部、革命広場にて、群衆がルーマニア共産党中央委員会の建物の前に集結した。チャウシェスクがこの集会を開こうと決めたのは、「自分はまだ国民から支持されている」との自信があったからである[69]。集会を主催したのはブクレシュティの市長、バルブ・ペトレスクであった。午前11時、集会が始まり、午後12時、チャウシェスクが建物の桟敷に姿を現わし、演説を始めた。
ところが、演説が始まってまもなく、群衆の中で突如爆竹が炸裂し、騒ぎが勃発したことで、チャウシェスクは演説を中断せざるを得なくなった。救国戦線評議会の委員の1人、カズィミール・イオネスクがのちに語ったところによれば、「ニコラエ・チャウシェスクの演説を妨害する目的で特別に編成された集団の存在があったのだ」という[8]。ルーマニアの日刊紙『România Liberă』(『自由ルーマニア』)は、「12月21日のチャウシェスクの演説を『台無しにした』のは誰だったのか? については、ティミショアラからブクレシュティに移動してきた集団の仕業である」と報道している[74]。
チャウシェスクは群衆に何度も「Allo!」と呼びかけて静粛にするよう促し、群衆を落ち着かせようとした。エレナ・チャウシェスクやセクリターテの職員も「聞こえないのか? 静かにせよ!」と群衆に向けて怒鳴った。群衆が一旦静かになると、チャウシェスクは再び演説を続けた。チャウシェスクはこの演説の中で「最低賃金200レイ、年金100レイ、社会扶助300レイ、児童手当30 - 50レイ、出産手当1000 - 2000レイの引き上げの実施を約束する」と発表した。これは前日招集したルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会でチャウシェスク本人が提案した内容であった[69]。しかし、騒ぎはますます大きくなり、チャウシェスクは混乱と戸惑いの表情を隠せずにいた。この演説は生放送であったが、一時的に中断された。集まった群衆の大部分は街頭へ向かい、党の活動家、愛国的な衛兵、私服を着た兵士、チャウシェスクに忠実な人々は広場に残っていた。チャウシェスクは建物の中に引き戻された。チャウシェスクは郡党委員会の第一書記と電話会議を行い、「ここ数日の一連の出来事は、国を不安定にさせ、ルーマニアの独立と主権に対する組織的な策動の結果である」と宣言し、党と国家権力、民兵、治安部隊、軍隊を総動員するよう求めたうえで、「我々は、この出来事の正体を暴き、断固として拒否し、始末を付けねばならない」「全人民の財産、ルーマニアの都市、社会主義、ルーマニアの独立と主権を守るための団体を設立するのだ」と述べた[75]。
抗議者への弾圧
革命広場から出た者たちは恐慌状態に陥り、宮殿広場周辺の通りに集まると、「独裁者を倒せ!」「チャウシェスクよ、お前は誰だ? - スコルニチェシュティ出身の極悪人だ!」との唱和を始めた。コガルニチャーノ広場から、連帯広場、ロセティ広場、ロムニア広場にかけては群衆で埋め尽くされていた[69]。ミハイ・ヴィターズルの像の上には、共産主義を象徴する紋章を切り取った三色旗を振る若者が立っていた。時間が経過するにつれて、ブクレシュティにおいてはますます多くの人々が街頭に繰り出していた。彼らに対する抑圧行動は、この日の午後6時ごろに始まり、翌日の深夜3時ごろまで続いた。国防大臣のヴァスィーレ・ミーラによる指揮のもと、戦車や装甲輸送車が出動し、大規模な治安部隊が動員され、武装しておらず、系統立っているわけでもない抗議者たちを迎え撃つことになる。
この日の事件を担当した検察官によれば、午後12時10分から午後1時にかけて、 ブクレシュティにて、何者かが抗議者(とくに、女性)を鋭利な物体で刺し、混乱が起こった。ルーマニア国防省の特殊車両が低周波の不安音を発し、混乱に陥った群衆をすばやく散らせた[64]。
午後4時、ホテル『Intercontinental』の前にいた群衆に、ルーマニア国防省のトラックが制御不能状態で突っ込んだ。これにより、7人が死亡し、8人が負傷した[64]。
午後6時、抗議者2000人が大学広場(Piața Universității)に障害物を設置した。午後8時、治安部隊が抗議者たちに発砲し始め、彼らを次々に逮捕していった。午後11時、ヴァスィーレ・ミーラが障害物を撤去するよう命じた。抗議者たちは地下鉄で逃げようとするも、治安部隊に捕らえられ、拷問された。その中には、子供、女性、老人も含まれ、駅の階段や乗降口には血が飛び散っていた。この過程で50人が殺され、462人が負傷し、1245人が逮捕され、ジラーヴァ刑務所に移送された[64]。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党の建物の中で過ごした。午前1時ごろ、ヴァスィーレ・ミーラとユリアン・ヴラードは、ブクレシュティの中心部から抗議集団が一掃された趣旨を報告した[76]。
死亡した者たちの遺体が病院に搬送されたが、検察庁と保険総局は、それらの遺体の解剖を禁止した。ティミショアラでの犠牲者たちと同じく、火葬するよう命じられた[77]。
アラドでの弾圧
12月21日、ルーマニア西部の都市・アラドでは、市内の中心部に向けて群衆が行進していた。群衆は暴力に訴えることは無く、平和的に行動していた。彼らは郡の党委員会の建物がある市庁舎前まで辿り着いた。午後12時30分、党委員会第一書記のエレナ・プーニャ(Elena Pugna)が姿を現わし、ブクレシュティで行われた集会の場でチャウシェスクが約束した給与や児童手当の増額の趣旨を伝えたのち、党委員会の本部へ戻っていった。12月20日にティミショアラで結成された「ルーマニア民主戦線」の様式に従い、この委員会のアラド支部が結成された。12月22日午後2時、広場と郡の党委員会の建物から軍隊が撤退し始めた。午後2時30分、市庁舎の桟敷から、ルーマニア人の俳優、ヴァレンティン・ヴォイスィラ(Valentin Voicilă)が姿を現わし、アラドが自由都市となった趣旨を宣言し、平穏と秩序を保つよう訴えた。アラドでは流血の事態は起こらないだろうと思われたが、この日の午後9時、民兵総監察局長のコンスタンティン・ヌツァ、民兵総監察局副局長、ヴェリコ・ミハラが姿を現わし、群衆に向けて銃撃が始まった。これにより、24名が殺された[78][79][80]。
コンスタンティン・ヌツァとヴェリコ・ミハラは、エレナ・チャウシェスクによる「バラ作戦」に関与していた。12月23日の朝、二人はアラドを出発し、ブクレシュティ行きの列車に乗ったが、デヴァで逮捕され、二人ともロープで身体を縛られた状態でヘリコプターに乗せられ、ブクレシュティに連れて行かれることになった。しかし、ルーマニア国防省からの命令で、ヘリコプターの経路が変更され、アルバ・ユリアへ向かうことになった。この地域に駐留していた陸軍部隊は、飛んできた飛行物体に対し、「事前警告無しで発砲・撃墜するように」との命令を受けていた。この命令に従う形で、二人の乗ったヘリコプターに対し、地上から対空機関銃による銃撃が一斉に開始された。操縦士以下三名は空中へ投げ出され、コンスタンティン・ヌツァとヴェリコ・ミハラは身動きが取れない状態のままヘリコプターごと地上に墜落し、全員死亡した[81]。空中にいる飛行物体を「事前警告無しで発砲・撃墜するように」との命令はルーマニア国防省の司令室から発せられ、そこにはヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクとイオン・イリエスクがいた。この事実は、軍事検察庁による捜査で明らかになった[81]。
12月22日
12月22日午前3時から午前5時にかけて、消防車と清掃車が出動し、大学広場の石畳、地下鉄駅の階段、周囲に飛び散った血痕を洗い流した[64]。ブクレシュティで抗議者たちが弾圧されたという知らせは瞬く間に拡がり、反チャウシェスクの気運はますます増幅していた。午前7時、労働者・抗議者の集団がルーマニア共産党中央委員会の建物に向かった。建物は約1000人の兵士が警護していた[76]。午前9時、ニコラエ・チャウシェスクは、ユリアン・ヴラードとヴァスィーレ・ミーラに対し、抗議の群衆がこの建物に接近するのを何としてでも阻止するよう指示を出した[64]。ヴァスィーレ・ミーラは、前日の夜に行われた弾圧に関与した事実について、良心の呵責に責め苛まれた[82]。
午前9時30分ごろ、ヴァスィーレ・ミーラが心臓を銃で撃ち貫いて死んでいるのが発見された[76]。ミーラの死を知らされたチャウシェスクは酷く動揺し、「ミーラ将軍は国家と国民を裏切った」と述べた[76][82]。午前9時45分、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議が始まった。チャウシェスクは「ミーラ将軍が、私のもとを離れた2分後に自殺したことを知らされた」と述べた[76]。死ぬ直前のミーラと会話したコルネリウ・プルカラベスクによれば、ミーラは「私はニコラエ・チャウシェスクから国民を撃つよう命じられた。自国民への射殺命令は、私には出せない」と語っていたという[83]。午前9時55分、ヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクがティミショアラから戻った。
チャウシェスクは「直ちにルーマニア全土に非常事態宣言を布告する。これは憲法に則ったものであり、大統領の権限でもある。国家評議会を招集するには及ばん」と述べた。コンスタンティン・ダスカレスクは「誠実な労働者を撃っていいものかどうか」と疑問を呈し、それに対して内務大臣のトゥドール・ポステルニクは「我々が発砲すべき相手は誠実な労働者ではなく、出来損ない連中やクズどもです」と述べた。チャウシェスクは、「もちろん、労働者に銃を向けるわけにはいかない。我々は労働者の代表なのであり、労働者を撃つことは無い。しかし、なかには卑怯者もいる。裏切り者のミーラに責任を負わせる。他にもいるかもしれんな」と答えた[76]。
午前10時50分[64]、チャウシェスクはルーマニア全土に非常事態宣言を布告した。チャウシェスクは、「テロ行為、破壊行為、公共財産の破壊による深刻な公序良俗違反を考慮」し、憲法第75条に基づき、ルーマニア全土に非常事態宣言を布告したのであった[82]。この布告が読み上げられたあとに「国防大臣が、ルーマニアの独立と主権に反する裏切り行為を働き、それが露見するのを悟って自殺したことをお知らせ致します」と報道された[84]。ヴァスィーレ・ミーラが死んだため、チャウシェスクは、ティミショアラから戻ってきたヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクを新たな国防大臣に任命した。しかし、スタンクレスクはチャウシェスクに忠誠を示す一方で、他方では二重の駆け引きを始めた。午前10時45分、スタンクレスクは陸軍通信本部にいた大尉のマリウス・トゥファン(Marius Tufan)に対し、「兵士たちに兵舎に戻るよう伝えて欲しい」と頼んだ。軍隊に兵舎への撤退を命じた数分後、スタンクレスクは宮殿広場が群衆に占拠された趣旨をチャウシェスクに報告した。チャウシェスクは怒りを露わにしつつ、「誰がそんなことを許可したのだ?」と尋ねた[69]。その後、スタンクレスクはニコラエ・チャウシェスクに対し、ルーマニア共産党の建物からヘリコプターに乗って離れるべきである趣旨を告げた[69][76][64]。
チャウシェスク夫妻の逃亡
ヴァスィーレ・ミーラの死を発表してまもなく、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時会議を招集し、チャウシェスク自ら軍の指揮を執る趣旨を発表した。ルーマニア共産党中央委員会の建物の前には5万人の群衆が集まっていたが、その数はさらに増えていた。12月22日午前11時30分ごろ、チャウシェスクは桟敷に姿を現わし、拡声器を手に取り、群衆に向けて演説を行おうとしたが、彼らの怒りを買っただけであった[69][76]。上空にヘリコプターが現われ、小冊子を空から配布しようとしたが、風が強く、群衆のもとには届くことは無かった。その小冊子には、「陽動作戦の犠牲にならぬよう、家に帰ってクリスマス休暇を楽しもう」と書かれていた。
セクリターテ第五治安総局長のマリン・ナゴエはヘリコプターの手配を要請した。午後12時6分[76][85]、大群衆が見守る中、チャウシェスク夫妻と護衛の乗ったヘリコプターが、建物の屋上から離陸していった。ヘリコプターには、エミール・ボブ、マーナ・マネスク、副操縦士のミハイ・シュテファン(Mihai Ştefan)、整備士のステリアン・ドラゴイ(Stelian Drăgoi)、ルーマニア内務省第五保安総局のフロリアン・ラーツ(Florian Raţ)とマリアン・ルースー(Marian Rusu)が同乗した[86]。操縦担当はヴァスィーレ・マルツァン(Vasile Maluțan)であり[87]、チャウシェスクの専属操縦士であった。
チャウシェスク夫妻が脱出したのち、ブクレシュティの状況はより混沌としたものとなった。ルーマニア共産党中央委員会の建物は抗議者たちに占拠され、チャウシェスク夫妻の肖像画や著書は窓から投げ捨てられていった[76]。午後12時30分頃、ルーマニア国営テレビ局は革命家たちに占拠された。12時50分頃、テレビ局は放送を再開し、ジャーナリストのミルチャ・ディネスクと、俳優のイオン・カラミトル(Ion Caramitru)が姿を現わし、「兄弟たちよ、我々は勝利したのだ!」と叫び、チャウシェスクが逃亡した趣旨を興奮気味に宣言した[88]。ブクレシュティで起こった大混乱は、やがてルーマニア全土へと波及していく。チャウシェスク夫妻の逃亡の知らせが広まると、ルーマニアの多くの都市で、チャウシェスク政権に対する抗議および革命運動に連帯する意味で、示威運動が自然に発生した。住民の集団が共産党の建物や民兵の支部を襲撃し、いずれの建物にも「桟敷」ができあがり、そこから演説が行われた。彼らは「チャウシェスクの独裁に対する勝利」および「自由と民主主義に基づくルーマニアの歴史における新しい時代の始まり」を宣言するに至った[76]。
12月22日午後1時30分の時点で、ルーマニアは指導者と呼べる存在はいないも同然の状態であり、権力の空白が発生し、ルーマニア国家は一時的な制御不能状態にあった。チャウシェスク夫妻が逃亡したのち、ヴィクトル・スタンクレスクは電話記録で「国防大臣から受けた命令だけを実行せよ」と述べた。スタンクレスクはルーマニア社会主義共和国大統領に帰属する最高司令官の特権を引き継ぐ形となった[76]。歴史家のイオアン・スクルトゥは、「『ヴィクトル・スタンクレスク将軍はクーデターを起こし、軍隊を利用してルーマニアの政治権力を掌握した』と考える歴史家もいる」と書いた[76]。
午後12時21分頃、チャウシェスク夫妻はブクレシュティの北部にあるスナゴヴ(Snagov)の住居へ向かい、午後12時47分にトゥルゴヴィシュテ(Târgoviște)に向けて出発した。午後1時30分、ボテニ(Boteni)の付近で軍隊から着陸を要求され、チャウシェスク夫妻はヘリコプターから降りた。護衛はニコラエ・デカ(Nicolae Deca)が運転していた赤いダチア車(番号「4B-2646」)を止め、チャウシェスクは「クーデターが起こった。私はトゥルゴヴィシュテで抵抗勢力をまとめあげている」と述べた。デカは「車に技術的な問題がある」と伝えた。チャウシェスク夫妻とセクリターテの幹部の一人は別の車を呼び止め、ニコラエ・ペトリショル(Nicolae Petrişor)が運転していた黒いダチア車(番号「4DB-3005」)に乗り、移動し続けた(午後2時15分)。一行はトゥルゴヴィシュテにある特殊製鉄工場に到着し、午後3時30分には、トゥルゴヴィシュテから5km離れた植物保護本部の建物に到着した。彼らはここでイオン・エナーケ(Ion Enache)、コンスタンティン・パリスィエ(Constantin Paisie)、アンドレイ・オスマン(Andrei Osman)に保護された。一行は民兵本部に向かったが、そこは反チャウシェスクの者たちに既に占拠されていたため、電波を探知する車に乗ってラツォヤ (Rățoia)へ逃亡した。チャウシェスク夫妻は、辺りが暗くなるまで森の近くに隠れていたが、17時50分に郡の民兵本部へ戻った。ここでチャウシェスク夫妻は、イリエ・シュティルベスク(Ilie Ştirbescu)率いる反チャウシェスクの集団に捕らえられた。午後6時10分、イオン・マレーシュ(Ion Mareș)、イオン・ツェク(Ion Ţecu)による護衛のもと、チャウシェスク夫妻はトゥルゴヴィシュテの軍隊の駐屯地へと移送された。時刻は午後6時30分になろうとしていた。民兵はチャウシェスク夫妻を陸軍に引き渡す準備をしていた。イリエ・シュティルベスクはチャウシェスクに向かって、「Nu eşti comunist, eşti un trădător!」(「あなたは共産主義者ではない。祖国の裏切り者だ!」)と言い放った[89]。チャウシェスクの略式裁判の参加者の一人、ジェル・ヴォイカン・ヴォイコレスクによれば、チャウシェスク夫妻は自分たちが「捕らえられた」とは認識しておらず、トゥルゴヴィシュテの軍隊に保護されていると信じていた、という[9]。その後2日間、夫婦は基地内にある独房と装甲兵員輸送車の中で過ごした。この間に、夫婦は簡易な健康診断を受けた[90]。
トゥルゴヴィシュテの駐屯地にいた大佐のアンドレイ・ケメニチ(Andrei Kemenici)は、『Jurnalul Naţional』(2009年3月23日付)からの取材で、駐屯地での様子について以下のように語った。
「 | 夫妻が部隊に連行されてきてから約1時間後、私は彼らのもとを訪れました。私が自己紹介すると、チャウシェスクは私の報告相手について尋ねてきました。私が「軍の司令官です」と答えると、 チャウシェスクは「あとは誰に?」と質問してきました。私が「国防大臣です」と答えると、チャウシェスクは「どの大臣?」と尋ねました。私は、「おや、同志チャウシェスク。ブクレシュティが今どれほど混沌とした状況下にあるのか、私には知る由もございません...」と答えました。私は彼に対し、国防大臣が職務を遂行できない場合、参謀総長のシュテファン・グーシャが代行する趣旨が文書に書かれている、と彼に告げました。チャウシェスクは、「私はティミショアラに彼を派遣したが、事態の収拾には至らなかった。彼はソ連の仲間だ」「文書には確かにそう書かれてあるが、私は彼とは全く会話していない」 「それで、誰と話したんだ?」と尋ねてきました。私が「陸軍の司令官への命令は、ニコラエ・ミリタル将軍(Nicolae Militaru)が下すものであることをお知らせ致します」と答えました。このとき、チャウシェスクはシュテファン・グーシャについて、「ソ連の工作員だ、КГБの諜報員だ、として軍隊から追い出した」と話していました。私は、「私はミリタル将軍から、お二人の問題は、いずれもすべて -その時私がどのように対処したか、正確には覚えておりませんが-、スタンクレスク将軍が解決するだろう、と言われました」と答えました。すると、チャウシェスクは私の手に手を置いて、 「この人物があなたの上官であることは知っているだろう?私を裏切ったミーラの後任として、今朝10時に任命したのだ。心配無用、彼の命令に従えばいい」と言ったのです。そして、私がスタンクレスクからの命令を遂行中である趣旨を告げると、彼はとても嬉しそうな様子を見せたのです[91]。 | 」 |
救国戦線評議会
ルーマニア共産党中央委員会の建物内には元・閣僚評議会議長のイリエ・ヴェルデッツもおり、新たな政権の樹立を試みるも、建物の外にいた群衆から「共産主義はもう要らない!」と野次を飛ばされた。
午後2時45分、イオン・イリエスクが演説を行い、「チャウシェスクのやったことは、共産主義を汚しただけに留まらないのだ」と語りかけた。午後3時ごろ、ブクレシュティ工科大学(Universitatea Tehnică din București)の講師でのちに首相となるペトレ・ロマン(Petre Roman)がルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、「Frontului Unităţii Poporului」(「人民統一戦線」)の声明を読み上げた[92]。 午後4時、イオン・イリエスクとペトレ・ロマンが陸軍および治安維持の責任者と会談した。午後5時、イオン・イリエスクがルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、その際に「同志諸君!」と呼びかけたことで群衆から非難され、表現の仕方を直した[64]。午後10時30分、イオン・イリエスクは宣誓書を読み上げ、チャウシェスクの権力からの追放、民主主義、政治における多元主義、経済回復のための措置の導入を宣言し、救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salvării Naţionale)の設立を発表した[64]。イリエスクはまた、「混乱と内戦、無政府状態を避けるため、総選挙が行われるまでは、救国戦線評議会が国家権力を引き継ぐ」と発表した[85]。
救国戦線評議会の「設立」中に、宮殿広場で銃声が轟いた。この銃声について、イオン・イリエスクは「『"いたずら好きな"諜報員』『自爆犯』『テロリスト』による仕業である」と断言した[64]。午後6時30分以降、正体不明の人物による銃声が轟き、攻撃を受けた。未確認且つ矛盾に満ちた情報が国営テレビから発せられ、チャウシェスク夫妻が脱出したあとのブクレシュティの状況はより混沌としたものとなった。イオン・イリエスクは、「テロリストに自由に行動させてはならない」と国民に呼びかけた。オトペニ国際空港に待機していた部隊の元に援軍が送られたが、部隊はこの援軍を「敵」だと思い込んで発砲し、50人が死亡した。12月23日午後9時、戦車と一部の民兵部隊が宮殿の防衛に出動した。軍の部隊は多くの民間人に武器を配った。「革命の大義に対する忠誠を示す」ために到着した国家保安局の職員やその他の治安部隊の幹部は、少なくとも公式には軍隊に属しており、作戦行動の調整には困難を要した[93]。軍隊および混成部隊の一員(兵士、民間人、愛国衛兵の戦闘員)が、実弾が発砲された(あるいは発砲されるはずだった場所)に報復した結果、数十人が殺され、重傷者が出た。不審な動き(窓を開ける、カーテンを動かす)が確認されれば、「テロリストが群がっている」「敵はどこからでも攻撃してくる」との論調で実弾が無秩序に乱射された。
12月24日、アメリカ合衆国の国務長官、ジェイムス・ベイカー(James Baker)はソ連の外務省に対し、「チャウシェスク政権の危機に関係する形での流血の事態を防ぐために、ソ連やワルシャワ条約機構がルーマニアに介入した場合、アメリカは反対しない」と通告した。ソ連は、「ルーマニア人の運命はルーマニア人自身に委ねる」と決定したという[53]。
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ブクレシュティ市内に出動した戦車
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1989年12月22日、ブクレシュティのマゲル大通りにいる戦車と民兵
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銃で武装した民間人
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チャウシェスク夫妻が逃亡したあとに群衆が占拠したルーマニア共産党中央委員会の建物
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群衆に語り掛けるペトレ・ロマン
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ルーマニア国営テレビに登場したイオン・イリエスク
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