パブロ・ピカソ 生涯

パブロ・ピカソ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 21:06 UTC 版)

生涯

ピカソの生まれたマラガの家
ピカソと妹のローラ、1889年

生い立ち

パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方マラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年-1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855–1938)との間に長男として生まれた。

父ホセ・ルイスは、美術教師、修復家、美術館学芸員長、画家だった[5]。1880年にマリアと結婚している。幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。ピカソは子供の頃から美術の英才教育を受けた。

1891年ガリシア地方ラ・コルーニャに移住[6]。父のホセ・ルイスは、同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任した。

美術学校へ

1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学[6]1894年、父、ホセ・ルイスは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる[7]

1895年バルセロナに移住、美術学校に入学。ひと月の猶予のある入学製作を1日あるいは1週間で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。

1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた国立美術展で入選する。佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことや当時の流行を学ぶことができず、王立アカデミーの体制に失望する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。

1898年、春に猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロ(現在のオルタデサンジョアン英語版)で療養[7]。6月、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを中退する。

成人後

1899年、バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、ラモン・カザスに代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。

1900年、2月1日、再びピカソの個展が開催され、アール・ヌーヴォーの影響を受けた線画が約150点が展示された。カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。

1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで個展を開く。「青の時代」の始まり。

1902年画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。

1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。  1905年、「ばら色の時代(Picasso's Rose Period)」または「桃色の時代」[8]が始まる(~1906年)。ガートルード兄妹のパトロンを見つける。

1907年、『アビニヨンの娘たち』製作。

1909年、フェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。

1911年9月、ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の1人として逮捕された[9](ただし1週間で釈放された)。

1912年モンパルナスへ移る。

1913年、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。

1916年、パリ郊外モンルージュに移り、翌年の1917年、バレエ団バレエ・リュスの『パラード』の装置、衣装を製作[10]

結婚後

1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。パリ8区ラ・ボエシー (Rue La Boétie) に移る。

1919年5月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。

1920年、『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。

1922年コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。

1924年、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。

1928年、彫刻に専心。

1930年、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。

1931年、『変身譚』の挿絵を制作。

1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。

1934年、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。

1935年、詩作。

1936年人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。パリ6区グラン=ゾーギュスタン河岸 (Quai des Grands-Augustins) 7番地に居住(1955年まで)。

1937年、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。

1939年ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。

1940年ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。

1941年、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。

1944年パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。フランス共産党員[11]となったが、イデオロギーにとらわれることには否定的だった。

1945年ロンドンブリュッセルで個展。

1946年フランソワーズ・ジロー英語版と共同生活。

1947年、この頃は陶器製作をしていた。

晩年

ピカソの埋葬されたヴォーヴナルグ城

1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤプッサンマネクールベドラクロワでも同様の仕事をしている。

1951年、『朝鮮の虐殺』製作。

1952年、『戦争と平和』のパネルを制作。

1953年、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。

1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。

1955年カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。妻のオルガが死去。1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。

1958年、『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。

再婚後

1961年、ジャクリーヌ・ロックと結婚。

1964年、日本、カナダで回顧展。1966年、パリ グラン・パレプティ・パレで回顧展。

1967年シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。

1968年、ピカソは版画に専心、半年間に347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚した女性たちを描いたものがある。ピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。

1970年アヴィニョン教皇庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。

死去

1973年4月8日午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。ヴォーヴナルグ城英語版に埋葬された[2]

ピカソの死後、孤独になった妻(2人目)のジャクリーヌは、1986年、59歳のときにで自殺している[12]

ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている[13][14]


注釈

  1. ^ ピカソのフルネームには、さまざまな聖人や親族が含まれる。1881年10月28日に発行された出生証明書によると、彼はパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソPablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picasso)として生まれた[3] 。彼の洗礼の記録によると、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・クリスピン・シプリアーノ(他の資料ではクリスピニアノ)・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・ピカソPablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Crispín Cipriano (other sources: Crispiniano) de la Santísima Trinidad María de los Remedios Alarcón y Herrera Ruiz Picasso[3][4] 名付け親が弁護士で、家族の友人であったJuan Nepomuceno Blasco y Barrosoであったことから、Juan Nepomucenoと名付けられた[3]。彼は誕生日に行われる10月25日月曜日のサンクリスピンデーにちなんで、Crispín Ciprianoと名付けられた 。Nepomucenoの妻であり、ピカソの名付け親であるMaría de los Remedios Alarcón y Herreraも、ピカソの洗礼名の中で尊重されている [3]
  2. ^ イギリス: [ˈpæbl pɪˈkæs]アメリカ: [ˈpɑːbl pɪˈkɑːs, -ˈkæs-]スペイン語: [ˈpaβlo piˈkaso]
  3. ^ カサヘマスはピカソらとともにパリに出て、ジュルネーヌという女性に思いを寄せたが失恋した。心配したピカソに連れられて一度スペインに戻るが、その後ひとりでパリに行き、カフェで談笑するジュルネーヌに銃弾を浴びせたのち、自分の右こめかみを撃って自殺した。ジュルネーヌは命を取り留め、長命している。
  4. ^ 内戦時にピカソは50代後半であった。兵卒は30歳前後でも老兵と言われる。彼が従軍を望んだとしても、兵卒としては勿論、たとえ尉官クラスの将校待遇にしてもらえたとしても、そもそも実戦に従軍すること自体が体力的にまず不可能であった点は充分な留意が必要である。

出典

  1. ^ Pierre Daix, Georges Boudaille, Joan Rosselet, Picasso, 1900-1906: catalogue raisonné de l'oeuvre peint, Editions Ides et Calendes, 1988
  2. ^ a b アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  3. ^ a b c d Cabanne, Pierre (1977) (英語). Pablo Picasso: His Life and Times. Morrow. p. 15. ISBN 978-0-688-03232-6. https://books.google.com/books?id=H-DqAAAAMAAJ 
  4. ^ Lyttle, Richard B. (1989) (英語). Pablo Picasso: The Man and the Image. Atheneum. p. 2. ISBN 978-0-689-31393-6. https://books.google.com/books?id=vbZIAQAAIAAJ 
  5. ^ 「ピカソ」 p.16 岡村多佳夫著。
  6. ^ a b 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p5 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  7. ^ a b ピカソ展カタログ編集委員会「PABLO PICASSO EXHIBITION-JAPAN 1964」毎日新聞社 1964年
  8. ^ 日本郵趣教会浜松支部
  9. ^ 布施英利『パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで』光文社、2015年、242頁。ISBN 978-4-334-03837-3 
  10. ^ ピカソとバレエ・リュス英語版参照
  11. ^ 【寄稿】ピカソ作「韓国での虐殺」は6・25戦争の虚偽宣伝物だ(朝鮮日報日本語版)”. Yahoo!ニュース. 2021年6月6日閲覧。 “ スペインに生まれフランスで活動してきたピカソは、1944年にフランス共産党へ入党し、その翌年のインタビューで「私は共産主義者であって、私の絵は共産主義の絵だ」と表明した。”
  12. ^ Kimmelman, Michael (1996年4月28日). “Picasso's Family Album” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1996/04/28/magazine/picasso-s-family-album.html 2022年12月14日閲覧。 
  13. ^ Most prolific painter”. ギネスブック. 2023年1月7日閲覧。
  14. ^ ピカソのフルネームとギネスの認定について知りたい。”. 国立国会図書館. 2023年1月7日閲覧。
  15. ^ Voorhies, James. Pablo Picasso (1881–1973), Heilbrunn Timeline of Art History, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2000
  16. ^ Wattenmaker, Richard J.; Distel, Anne, et al.,1993, p. 194
  17. ^ Richardson John. A Life Of Picasso. The Prodigy, 1881–1906, Dionysos p. 475. New York: Alfred A. Knopf, 1991. ISBN 978-0-307-26666-8
  18. ^ a b 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p48 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  19. ^ 回想記『ピカソとの日々』(フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク共著、野中邦子訳、白水社、2019年)がある。
  20. ^ 「ピカソ」p.62。角川文庫
  21. ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p61 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  22. ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66-67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  23. ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  24. ^ a b 「美術品オークション、過去の高値上位10作品」.AFPBB 2015年5月12日 2018年9月8日閲覧。
  25. ^ ピカソの絵画が100億円超で落札、美術品の最高記録更新.ロイター 2010年5月5日
  26. ^ 盗難に遭ったピカソらの名作7点、容疑者の母親が「焼却」.AFPBB 2013年7月17日
  27. ^ パブロ・ピカソが描いた絵画 “花かごを持つ少女” が約125億円で落札される”. HYPEBEAST (2018年5月10日). 2019年5月17日閲覧。
  28. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3091079 『「ティファニー」パロマによるメンズジュエリー発表』AFPBB 2016年06月20日 2017年7月11日閲覧
  29. ^ Cole, Ina (2020年12月18日). “Nowgoal”. Art Times. 2023年8月閲覧。
  30. ^ Lewis, Richard (2014年3月9日). “The Dove: Picasso and Matisse”. Lewis Art Cafe. 2020年12月18日閲覧。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「パブロ・ピカソ」の関連用語

パブロ・ピカソのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パブロ・ピカソのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのパブロ・ピカソ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS