パブロ・ピカソ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/27 17:03 UTC 版)
生涯
パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年-1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855–1938)との間に長男として生まれた。父ホセ・ルイスは、鳥などを専門とした画家であり、1880年にマリアと結婚した。
幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。
1973年の4月8日にフランスのムージャンで死亡した。91歳没。死因は肺水腫であった。ピカソの死後、孤独になったジャクリーンは、1986年に59歳のときに銃で自殺している[8]。
年表
- 1881年10月25日午後11時15分、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス[9]。
- 1891年、ガリシア地方ラ・コルーニャに移住[10]。父、ホセ・ルイス
- 同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
- 1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学[10]。
- 1894年、父、ホセ・ルイスは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる[9]。
- 1895年、バルセロナに移住、美術学校に入学。ひと月の猶予のある入学製作を1日或いは1週間で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
- 1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた国立美術展で入選する。佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことや当時の流行を学ぶことができず、王立アカデミーの体制に失望する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。
- 1898年、春に猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロ(現在のオルタデサンジョアン)で療養[9]。6月、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを中退する。
- 1899年、バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、ラモン・カザスに代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。
- 1900年、2月1日、再びピカソの個展が開催され、アール・ヌーヴォーの影響を受けた線画が約150点が展示された。カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
- 1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで個展を開く。「青の時代」の始まり。
- 1902年画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。
- 1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
- 1905年、「ばら色の時代(Picasso's Rose Period)」または「桃色の時代」[11]が始まる(~1906年)。ガートルード兄妹のパトロンを見つける。
- 1907年、『アビニヨンの娘たち』製作。
- 1909年、フェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
- 1911年9月、ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の1人として逮捕された[12](ただし1週間で釈放された)。
- 1912年、モンパルナスへ移る。
- 1913年、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。
- 1916年、パリ郊外モンルージュに移る。
- 1917年、バレエ団バレエ・リュスの『パラード』の装置、衣装を製作[13]。
- 1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。パリ8区ラ・ボエシー (Rue La Boétie) に移る。
- 1919年5月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。
- 1920年、『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
- 1921年、息子パウロ誕生。
- 1922年、コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
- 1924年、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。
- 1928年、彫刻に専心。
- 1930年、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
- 1931年、『変身譚』の挿絵を制作。
- 1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
- 1934年、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
- 1935年、娘マハ誕生。詩作。
- 1936年、人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。パリ6区グラン=ゾーギュスタン河岸 (Quai des Grands-Augustins) 7番地に居住(1955年まで)。
- 1937年、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
- 1939年、ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
- 1940年、ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。
- 1941年、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
- 1944年、パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
- 1945年、ロンドン、ブリュッセルで個展。
- 1946年、フランソワーズ・ジローと共同生活。
- 1947年、息子クロード誕生。陶器製作。
- 1949年、娘パロマ誕生。
- 1951年、『朝鮮の虐殺』製作。
- 1952年、『戦争と平和』のパネルを制作。
- 1953年、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。
- 1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
- 1955年、カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。妻のオルガが死去。
- 1958年、『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
- 1961年、ジャクリーヌ・ロックと結婚。
- 1964年、日本、カナダで回顧展。
- 1966年、パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。
- 1967年、シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。
- 1968年、版画に専心、半年間に347点を製作。
- 1970年、アヴィニョン教皇庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。
- 1973年4月8日午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。ヴォーヴナルグ城に埋葬された[2]。

作風
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。
- 青の時代(1901年 - 1904年)
- 19歳のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け[注 3]、鬱屈した心象を、無機顔料のプロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。現在「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
- 薔薇色の時代(1904年 - 1906年)
- フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。薔薇色の時代の代表作『パイプを持つ少年』の少年はピカソの油彩作品のデッサンのためにピカソのアトリエにボランティアで来ていた10代のモデルだったとされている。.[14][15][16]他にも『玉乗りの少女』、『オ・ラパン・アジル』、『サルタンバンクの一家』、『軽業師の家族と猿』、『曲芸師と幼いアルルカン』、『花のバスケットを持つ裸の少女』、『ガートルード・スタインの肖像』、『馬を引く少年』等がある。
- アフリカ彫刻の時代(1906年 - 1908年)
- アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の影響を強く受けた時代。1907年に、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。
- プロトキュビスムの時代(1907年 - 1908年)
- 1908年にはアフリカ彫刻の影響が色濃く現れながらも、プロトキュビスム(初期キュビスム)が確立され始める。ポール・セザンヌの影響も強くうかがえることから、セザンヌ的キュビスムということもある。1909年5月、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
- 分析的キュビスムの時代(1908年 - 1912年)
- 1910年後半から1911年にかけて対象の分析はさらに進む。この頃には、プロトキュビスムの時代にしばしば描かれていた風景画はほとんど描かれることはなくなり、人物や静物が主な対象となる。対象が徹底的に分解され、何が描かれているのか識別することが困難なところにまで到達する。広義的には抽象絵画ともいえるが、あくまで具象絵画である。作品としては『オルタ・デ・エブロの工場』『ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの肖像』『Femme et pot de moutarde』等がある。
- 総合的キュビスムの時代(1912年 - 1921年)
- 総合的キュビスムでは、印刷物などの紙や新聞紙、壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ(パピエ・コレ)が導入される。これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドの先駆である。また、分析的キュビスムの時代には抑えられていた色彩表現が復活した。1914年頃から緑を基調とした、装飾的なキュビスムを描き始める。装飾的で優雅な表現であることから、ロココ的キュビスムと呼ばれる。
- 新古典主義の時代(1917年 - 1925年)
- 1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことが影響して新古典主義の時代に突入する。妻オルガと息子パウロをモデルにすることが多く、どっしりと量感のある、身体に比べて大きい手足、彫刻のような肉体、額から続く高い鼻などが特徴である。
- シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年 - 1936年)
- 1925年頃にシュルレアリスムに興味を持ち、シュルレアリスムのグループ展に参加する。妻オルガに対する不満が大きく膨らんだ時期に描かれた『三人の踊り子(ダンス)』や『磔刑』などが代表作。
- 戦争とゲルニカ(1937年)
- ナチス・ドイツ(実行したのはドイツ空軍のコンドル軍団である)がスペインのゲルニカを爆撃したことを非難する大作『ゲルニカ』や、その習作(『泣く女』など)を描いた。
- ヴァロリス期(1947年 - 1953年)
- 陶芸家としての活動を始める。
- 晩年(1954年 - 1973年)
- 過去の巨匠の作品のオマージュを手がけたり、油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。1972年には、死を予測したかのような一連の自画像を手がけた。
注釈
- ^ ピカソのフルネームには、さまざまな聖人や親族が含まれる。1881年10月28日に発行された出生証明書によると、彼はパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ(Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picasso)として生まれた[3] 。彼の洗礼の記録によると、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・クリスピン・シプリアーノ(他の資料ではクリスピニアノ)・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・ピカソ(Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Crispín Cipriano (other sources: Crispiniano) de la Santísima Trinidad María de los Remedios Alarcón y Herrera Ruiz Picasso)[3][4] 名付け親が弁護士で、家族の友人であったJuan Nepomuceno Blasco y Barrosoであったことから、Juan Nepomucenoと名付けられた[3]。彼は誕生日に行われる10月25日月曜日のサンクリスピンデーにちなんで、Crispín Ciprianoと名付けられた 。Nepomucenoの妻であり、ピカソの名付け親であるMaría de los Remedios Alarcón y Herreraも、ピカソの洗礼名の中で尊重されている [3]。
- ^ イギリス: [ˈpæbloʊ pɪˈkæsoʊ]、アメリカ: [ˈpɑːbloʊ pɪˈkɑːsoʊ, -ˈkæs-]、スペイン語: [ˈpaβlo piˈkaso]
- ^ カサヘマスはピカソらとともにパリに出て、ジュルネーヌという女性に思いを寄せたが失恋した。心配したピカソに連れられて一度スペインに戻るが、その後ひとりでパリに行き、カフェで談笑するジュルネーヌに銃弾を浴びせたのち、自分の右こめかみを撃って自殺した。ジュルネーヌは命を取り留め、長命している。
- ^ 内戦時にピカソは50代後半であった。兵卒は30歳前後でも老兵と言われる。彼が従軍を望んだとしても、兵卒としては勿論、たとえ尉官クラスの将校待遇にしてもらえたとしても、そもそも実戦に従軍すること自体が体力的にまず不可能であった点は充分な留意が必要である。
出典
- ^ Pierre Daix, Georges Boudaille, Joan Rosselet, Picasso, 1900-1906: catalogue raisonné de l'oeuvre peint, Editions Ides et Calendes, 1988
- ^ a b アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
- ^ a b c d Cabanne, Pierre (1977) (英語). Pablo Picasso: His Life and Times. Morrow. p. 15. ISBN 978-0-688-03232-6
- ^ Lyttle, Richard B. (1989) (英語). Pablo Picasso: The Man and the Image. Atheneum. p. 2. ISBN 978-0-689-31393-6
- ^ “【寄稿】ピカソ作「韓国での虐殺」は6・25戦争の虚偽宣伝物だ(朝鮮日報日本語版)”. Yahoo!ニュース. 2021年6月6日閲覧。 “ スペインに生まれフランスで活動してきたピカソは、1944年にフランス共産党へ入党し、その翌年のインタビューで「私は共産主義者であって、私の絵は共産主義の絵だ」と表明した。”
- ^ “Most prolific painter”. ギネスブック. 2023年1月7日閲覧。
- ^ “ピカソのフルネームとギネスの認定について知りたい。”. 国立国会図書館. 2023年1月7日閲覧。
- ^ Kimmelman, Michael (1996年4月28日). “Picasso's Family Album” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331 2022年12月14日閲覧。
- ^ a b c ピカソ展カタログ編集委員会「PABLO PICASSO EXHIBITION-JAPAN 1964」毎日新聞社 1964年
- ^ a b 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p5 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
- ^ 日本郵趣教会浜松支部
- ^ 布施英利 『パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで』光文社、2015年、242頁。ISBN 978-4-334-03837-3。
- ^ ピカソとバレエ・リュス参照
- ^ Voorhies, James. Pablo Picasso (1881–1973), Heilbrunn Timeline of Art History, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2000
- ^ Wattenmaker, Richard J.; Distel, Anne, et al.,1993, p. 194
- ^ Richardson John. A Life Of Picasso. The Prodigy, 1881–1906, Dionysos p. 475. New York: Alfred A. Knopf, 1991. ISBN 978-0-307-26666-8
- ^ a b 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p48 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
- ^ 回想記『ピカソとの日々』(フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク共著、野中邦子訳、白水社、2019年)がある。
- ^ 「ピカソ」p.62。角川文庫
- ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p61 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
- ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66-67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
- ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
- ^ a b 「美術品オークション、過去の高値上位10作品」.AFPBB 2015年5月12日 2018年9月8日閲覧。
- ^ ピカソの絵画が100億円超で落札、美術品の最高記録更新.ロイター 2010年5月5日
- ^ 盗難に遭ったピカソらの名作7点、容疑者の母親が「焼却」.AFPBB 2013年7月17日
- ^ “パブロ・ピカソが描いた絵画 “花かごを持つ少女” が約125億円で落札される”. HYPEBEAST (2018年5月10日). 2019年5月17日閲覧。
- ^ Cole, Ina (2010年5月). “Pablo Picasso: The Development of a Peace Symbol”. Art Times. 2020年12月18日閲覧。
- ^ Lewis, Richard (2014年3月9日). “The Dove: Picasso and Matisse”. Lewis Art Cafe. 2020年12月18日閲覧。
- ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3091079 『「ティファニー」パロマによるメンズジュエリー発表』AFPBB 2016年06月20日 2017年7月11日閲覧
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