ドイツ農民戦争とは? わかりやすく解説

ドイツ‐のうみんせんそう〔‐ノウミンセンサウ〕【ドイツ農民戦争】

読み方:どいつのうみんせんそう

1524年から1525年にかけてドイツ起きた大規模な農民反乱荘園制解体による危機を、領主封建地代強化打開しようとしたことに始まった宗教改革運動呼応していたが、ルター農民急進化をみて領主支持転じ戦争農民敗北終わった


ドイツ農民戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 17:02 UTC 版)

ドイツ農民戦争
宗教改革

ドイツ農民戦争を時系列で表した地図 薄灰色の部分は、ドイツ農民戦争以前の反乱地域を表す。1524年の反乱は赤で示した地域、すなわちミュールハウゼン、フォルフハイム、ならびに現在のドイツ南西部を含む小規模な範囲で起こった。1525年3月20日までに反乱は特に南部で東に向かって広がり(薄赤)、1525年3月と4月の反乱は北に向かって一気に広がった(茶色)。スイスも反乱の中にあった。1525年4月30日以降の反乱は南東へすなわち現在のオーストリアへ向かっている。白い×印は主な戦闘が起こったところ。実線は神聖ローマ帝国の国境、点線は2003年時点のドイツの国境
1524–1525
場所 現在のドイツスイスオーストリアアルザスチェコ
結果 反乱の鎮圧と参加者の処刑
衝突した勢力
農民軍(Peasant Army) シュヴァーベン同盟
指揮官
トマス・ミュンツァー 
ハンス・ミュラードイツ語版英語版 
ヴェンデル・ヒプラー英語版 
ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン
en:Georg, Truchsess von Waldburg
戦力
300,000
被害者数
>100,000
プロテスタント宗教改革
迫害の歴史
神権政治
宗教改革の始まり
宗教改革者
各国の宗教改革

ドイツ農民戦争(ドイツのうみんせんそう、: Deutscher Bauernkrieg, : German Peasants' War)は1524年、主にドイツ南部・中部の農民が起こした大規模な反乱

概要

この反乱の代表的指導者はトマス・ミュンツァーであったが、次第に急進化し社会変革を掲げるようになった。そのため社会制度に対して保守的なマルティン・ルターは始めこの反乱を支持していたものの、鎮圧の側に回り、反乱は最終的に鎮圧された。このためこの地方の農民からルター派は支持を失い、以後カトリックが主流となる(→文化闘争)。

一方ルターが保守的であることを知った領主階級はカトリック教会を通じて支配体制を強化しようとするカール5世への対抗の必要上、ルター派を支持するようになった。

関連項目

外部リンク


ドイツ農民戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:01 UTC 版)

マルティン・ルター」の記事における「ドイツ農民戦争」の解説

聖書書かれていないことは認めることができない」というルター言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民希望与えることになったそもそも農民領主仕えることも聖書根拠見出せないというのである。かつてルター同志であったトマス・ミュンツァーはこういった人々リーダーとして社会変革唱えるようになっていた。ドイツ農民暴動自体15世紀後半から頻発していたが、ルター説を根拠農民たちが暴力行為に走ると、ルターミュンツァー農民たちを批判し二人互いに攻撃しあうようになった。さらに再洗礼派過激な教説農民暴動火に油を注ぐ結果となった1524年西南ドイツシュヴァーベン地方修道院農民たちが、賦役貢納軽減農奴制廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱起こし、これは隣接地域瞬く間広がっていった。これが1524年から1525年にかけて起こったドイツ農民戦争である。ルター初めローマ殲滅戦煽動していたが、次第路線をめぐり党派分裂するなか、ルター反乱側にではなく市民貴族諸侯の側について暴徒鎮圧求め民衆には平和な抵抗訴えるようになる(この平和な抵抗路線についてはすでにさかのぼること1520年ドイツ国民貴族与う』で示されていた)。 ルター路線変更後の1525年、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し刺し殺せ。(…)狂犬撲殺しなけらばならない」と農民殺害煽動するほどであった宗教改革成功させるためには、世俗権力と金力が必要だった ルター鎮圧支持受けた領主たちはシュヴァーヴェン同盟中心として徹底的に農民暴動鎮圧し首謀者たち(?)を殺害したミュンツァー捕らえられ処刑された。これにより反乱の主要地であった南ドイツにおいてはルター派支持失い、またルターの説からそもそもこの反乱おこったこともあって、ドイツ農民戦争時におけるルター言動結果として彼の評判を傷つけることになったルターはこの苦い経験から教会信徒に対してやはり何らかのコントロールが必要であると考えようになった。こうして領邦教会という新し教会あり方生まれていく。

※この「ドイツ農民戦争」の解説は、「マルティン・ルター」の解説の一部です。
「ドイツ農民戦争」を含む「マルティン・ルター」の記事については、「マルティン・ルター」の概要を参照ください。

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