814空戦
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1937年8月13日、第二次上海事変の勃発当時、高は第4大隊を率い周家口飛行場に展開していたが、台風で命令が下りないことにしびれを切らしていた。そこに偶然不時着した民間のフォード トライモータを徴発、南京へと向かった。南京小営の航空委員会へと到着した高は、そこで航空委員会主任・周至柔より、第4大隊を筧橋に展開させ、杭州湾に展開する日本艦隊の爆撃に参加せよとの命令を受ける。 翌8月14日午前10時、高は周家口の第4大隊隊員に向け電報を発した。第4大隊の全機は、21中隊長の李桂丹を筆頭に台風の荒天の中を杭州の筧橋飛行場(総站長:邢剷非)へと進出した。第4大隊の配備機種はカーチス・ホークⅢ(英語版)で、高の乗機「Ⅳ-1」号機は23中隊隊員・曹士栄の手で回送された。正午過ぎ、高も筧橋へと到着し、部隊の到着を待っていた。しかしその時、防空総台(台長:陳一白)より、温州監視台管轄の青田県にて重爆隊の轟音が確認されたとの報を受ける。轟音の主は台湾松山飛行場から渡洋爆撃に出撃してきた新田慎一少佐(兵51期)率いる鹿屋海軍航空隊の九六式陸上攻撃機 9機であった。高は筧橋に着陸した直後の21中隊飛行員たちに、直ちに再発進し編隊を迎撃するよう命じ、やがて23中隊が到着すると、高も自らの乗機に乗り込んだ。やがて第4大隊は雲の下を飛ぶ九六陸攻と会敵。高は最初に1機を撃墜、続いてもう1機を肉薄して銃撃、左エンジンに煙を起こさせるも、自機のエンジンにも火が付き離脱。着陸後ただちに消火させた。日本側の記録と照合すると、高が撃墜したのは第1小隊3番機(坪井輿介一空曹機)、第3小隊の3番機(三上良修三空曹機)のいずれか、大破させたのは第3小隊の2番機(大串均三空曹機)と思われる。大串機は帰還出来たものの、着陸直後に大破し使用不能となった。この日、部隊全体の戦果は2機撃墜、2機大破であったが、「6対0」として過大評価され、戦後中国空軍の記念日「空軍節」として長く記憶される。 続いて8月15日朝、艦隊爆撃の準備に取り掛かる中飛来した空母「加賀」の八九式艦上攻撃機・九四式艦爆隊を迎撃、1機を撃墜した。しかし2機目を射撃中に後方射手の放った銃弾がエンジンと右腕を貫通した。高は操縦桿を足で挟みながら傷口を縛って止血させたのち、操縦桿を左手で握って戦闘を継続、そして敵が去ったのを見計らってから帰投した。機体の着陸がスムーズで、また部下の報告を受けた際も激痛をこらえて顔に出さなかったため、誰も負傷に気付かなかったという。全機給弾を指示したのち邢剷非に負傷を報告、杭州広済医院に運ばれた。医者はその傷の酷さに驚いていたが、高は手術中も平然としていたという。こののち、漢口の病院にて40日間の入院療養を余儀なくされた。このエピソードが、龐徳から受けた毒矢を華陀に取ってもらいながら平然と馬良と酒を飲み碁を打つ関羽のようであったため、彼の愛機も赤兎馬に例えられるようになった。 8月30日、杭州湾に展開していた第4大隊22中隊が米国民間船「プレジデント・フーヴァー号(英語版)」を誤爆、第5大隊長兼駆逐司令官の丁紀徐が軍籍剥奪処分となった事を受け、その後任として駆逐司令官に就く。 9月中旬、日本軍による首都南京への空襲を聞いて戦線復帰した高は、防空戦特化のため大校場飛行場にある第4、第5大隊のホークⅢ胴体下部の爆弾架を取り外すことを提案。総站長の石邦藩は空軍前敵総指揮部参謀長も兼任していたものの、彼の一存では決められなかったため、宋美齢に電話して早速許可を取り付けた。そんな中、江陰上空に九五式水上偵察機2機が飛来している報を聞き、劉粋剛、鄒賡続、董慶翔の3名とともに改修を施した機体で出撃。復帰当日の高もうち1機を撃墜した。9月22日、南京上空で日本海軍の戦爆連合17機を迎撃し、九六式艦上戦闘機1機を撃墜した。更にもう1機を狙おうとした時に後ろから追って来た別の九六艦戦の追撃を振り切るも、復帰早々に30分ものドッグファイトは傷にこたえ、句容に着陸と同時に昏倒してしまったが、ほどなくして復帰した。
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