3代目・立浪和義
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「ミスタードラゴンズ」の記事における「3代目・立浪和義」の解説
西沢・高木に続き「3代目ミスタードラゴンズ」と呼ばれる立浪和義は、1987年に春・夏の甲子園で連覇を達成したPL学園高校を主将として率いた。同年オフのドラフト会議で南海ホークスとの1位競合指名の末に星野仙一監督率いる中日が交渉権を獲得し、中日へ入団した。 立浪は翌1988年から2009年に現役を引退するまで中日一筋で22年間プレーし、1年目の1988年シーズンには高卒新人ながら開幕戦に遊撃手としてスタメン出場すると最優秀新人賞(新人王)・ゴールデングラブ賞(遊撃手部門)を獲得する活躍で中日球団史上4度目のリーグ優勝に貢献した。同年は勝負強い打撃・華麗な守備で新風を起こし、甘いマスクも相まって「竜のプリンス」と呼ばれた。 翌1989年は「2年目のジンクス」にぶつかる形で右肩故障により低迷するが、3年目となる1990年には規定打席に到達して打率.303を記録し、その後もチームの主力選手として「強竜打線」を牽引して安打を量産した。その後も勝負強い打撃で勝利に貢献し、中日の主力選手として活躍し続けた立浪は2002年、強打者不在の打線で4番打者を務め16本塁打・92打点(ともに自己最多)を記録したほか、翌2003年7月5日には東京ドームで行われた巨人戦にて通算2000本安打を達成した。2005年には通算450二塁打を達成して福本豊の記録(通算449二塁打)を塗り替える日本プロ野球史上最多二塁打記録を達成した。 その間に中日の本拠地はナゴヤ球場からナゴヤドームへ移転し(1997年より)、立浪自身も遊撃手→二塁手→三塁手と幾度にわたって守備位置を変更しつつも1995年 - 1997年まで3年連続で二塁手部門・2003年には三塁手部門で通算5回のゴールデングラブ賞を獲得したほか、1996年には二塁手・2004年には三塁手としてそれぞれベストナインを獲得した。2006年シーズン中盤以降は森野将彦の台頭によりスタメンを外れ代打要員となったが、プロとして与えられた立場でチームに貢献し、2007年には落合博満監督の下で悲願の球団史上53年ぶりの日本一(西沢が現役だった1954年以来・2度目)に貢献した。 現役引退まで打撃三部門のタイトル(首位打者・本塁打王・打点王)や盗塁王の獲得はゼロに終わり(無冠の帝王)、ずば抜けた成績を残したシーズンこそなかったものの、2009年の現役引退までに通算2586試合出場・2480安打・1037打点(いずれも球団記録)の成績を残し、星野監督時代の1988年・1999年および落合監督時代の2004年・2006年と計4度のリーグ優勝に貢献した。また日本球界最多となる通算487二塁打を記録しており、プロ入り初安打・最終安打ともに二塁打であったため、本人は「二塁打に縁があるかもしれない」と述べている。 立浪の現役時代に巨人の監督を務め「ミスタージャイアンツ」とうたわれた長嶋茂雄は立浪が通算安打数で自身の記録(2471安打)に並んだ際、「彼のプレーは『ミスター・ドラゴンズ』に相応しい」とコメントしている。またファンからの人気は晩年、ナゴヤドームで「代打・立浪」がコールされる度に大歓声が上がるほどで、大山くまおは立浪の人物像を「その風格と貫禄、名古屋での絶大な人気は他の追随を許さない」と評しているほか、ファンの間では現役時代末期から引退後に至るまで立浪に対し根強い監督就任待望論があったが、球団から2021年オフに監督就任を要請され、これを受諾した。 2019年にはプレーヤー部門で野球殿堂入りを果たしている。 中日球団の応援歌として親しまれている「燃えよドラゴンズ!」のうち、2007年の日本一を記念して制作された「燃えよドラゴンズ! 2007優勝記念盤」では(通常は1選手につき歌詞1行まで)歌詞2行分を費やして立浪に言及する「特別扱い」がなされている。
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