3代目 服部半蔵正就
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:11 UTC 版)
父である正成の死後、伊賀同心200人の支配を引継ぎ先手の鉄砲奉行を務める。関ヶ原の合戦前には鉄砲奉行の一人として家康を護衛し、会津方面の防衛として大田原城の戦時改修にあたった。その後、宇都宮を防衛すると共に伊賀衆を使った白河小峰城の偵察にも派遣され、合戦当日には黒羽城を防衛した。一方、配下である伊賀同心とは服部家の家格などの理由で父の代より確執があり、慶長9年秋には同心の一部が正就への不満と同心たちの昇格の要望を記した目安を投じる事件が起きる。正就が処分を受ける事はなかったが、この直後、将軍お目見前に身内の病気見舞いのため届出なく無断で夜間外出した事などを理由に改易を申し付けられた。慶長10年初、正就は伊賀同心の支配の役目を解かれ岳父である松平定勝の元、掛川城で蟄居となった。その後許されて伏見で定勝に仕えたが、汚名返上のため参陣した大坂夏の陣で家臣や従者と共に行方不明となり、遺体がないまま高野山で葬儀のみ行われた。また、伊賀や新潟には正就が隠れ住んで落ち延び、庄屋となった伝説が残っている。 名は源左衛門、官位は石見守。法号は了義院殿前石州禅室参公大居士。 詳細は「服部正就」を参照
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