1999年 - 2005年(J2)
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「ヴァンフォーレ甲府」の記事における「1999年 - 2005年(J2)」の解説
1999年 ライセンスの問題 からそれまで指揮をとっていた塚田雄二に代わり、勝俣進が監督に就任 した。リーグ戦は開幕10試合未勝利などを喫し、最下位の成績。また、人件費抑制など経費削減に努めたものの、ユニフォームスポンサーがゼロに陥るなど広告収入が激減、さらに関心の薄さや低迷するチームが影響し、観客の伸び悩みにより3年連続の単年度赤字に陥った。 2000年 S級指導者ライセンスを取得した塚田が監督に復帰。リーグ戦は2年連続最下位に終わり、第4節の仙台戦の勝利を最後に第33節の新潟戦に勝利するまで6連敗と19連敗を含む26試合未勝利(後述)を記録した。また、入場者数は浦和戦を除き3,000人を超えた試合が開幕戦のみであり、1,000人を割る試合が5試合あった。登録選手は24人でうち6人がアマチュア契約、さらにプロ契約での途中退団者が発生し選手が不足したことからフィジカルトレーナーだった鶴田道弘と急遽プロ契約を結びやりくりせざるを得ない状況であった(鶴田はこのシーズンのみで再び引退)。 前年度シーズン終了直前に経営危機問題が発覚し、チームの存続が危ぶまれることとなる。 「ヴァンフォーレ甲府経営危機問題」も参照 2001年 存続運動などの結果条件付で2001年の参戦が決まり、上永吉英文が強化部長に就任 するとブラジルのSEパルメイラスと提携を結び、監督のルイス・ドス・ヘイス・ゴンサルベス及び5人のブラジル人選手の無償提供を受ける。ヘイスをはじめブラジル人選手の来日が大幅に遅れるなど足並みが揃わないまま開幕を迎え、J1昇格目前の仙台にホームで勝利するなどしたが3年連続最下位の成績。また、98失点はJリーグ最多失点記録となった。経営面は3つの存続条件を全て達成すると共にJ参入3年目にして初めて単年度黒字を計上し、翌年度以降のチームの存続が決定した。なお、この年を以て甲府クラブ時代から在籍し、公務員Jリーガーとしてプレーしていた石原大助が引退。翌年以降は全選手がプロ契約のみとなる。 2002年 パルメイラスとの提携を解除し、清水エスパルスと提携を結んだ(別掲)。また、監督に大木武が就任。藤田健、倉貫一毅、石原克哉、水越潤の活躍もあり12チーム中7位に入った。また、9月21日のC大阪戦においてチーム初となる小瀬競技場で満員(当時は13000人収容)を記録した。また、イリュージョニストのプリンセス・テンコーがスポンサーとなり、背中部分に「PRINCESS TENKO」の文字が入った。個人がJリーグのユニフォームスポンサーになるのは中田英寿(湘南)や藤原紀香(横浜FC)の例があるが、テンコーはホームゲームでイリュージョンを行ったり、甲府のユニフォームを着てテレビ番組に出演するなど甲府を支援。テンコーとは2003年までスポンサー契約が続いた。 2003年 大木が監督を退任(後に清水の監督に就任)し、東京V元監督の松永英機が後任の監督に就任。松永は昨シーズンのプレースタイルを継承。倉貫一毅、石原克哉、水越に横浜FMなどでプレーした外池大亮を加えた中盤は安定し、さらに6月には元日本代表の小倉隆史が加入すると、藤田またはこの年湘南から移籍した須藤大輔によるツートップでチーム力は向上。結果としてJ2参入後初となるシーズン勝ち越しおよび全チームからの勝利を獲得するなど最終節で福岡に抜かれたものの5位に入った。 2004年 松永体制2年目。外池が広島へ移籍した一方、6年ぶりにバロンが復帰。小倉または山崎光太郎との2トップが機能し開幕から得点を量産。一時は2位になるなどチーム状況は良好で、前期は3位で折り返す。7月31日にバロンが退団(その後鹿島に移籍)したものの第3クールまでは昇格争いに踏み留まったが、藤田と石原が怪我により長期離脱するとチームは失速。第4クールは2勝しかできずに7位でシーズンを終了した。 2005年 大木が監督に復帰。大宮から移籍したFWバレーがこのシーズン、J2得点ランク2位の21得点を挙げる活躍。J1への自動昇格となる2位以上こそならなかったものの、仙台をかわして3位でシーズンを終えた。J1・J2入れ替え戦で柏に連勝して、J1昇格が決まった。 「2005年J2最終節」も参照
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