1800–1847年
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「熱力学の年表」の記事における「1800–1847年」の解説
1802年 - ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックがシャルルの法則が発表される(ジャック・シャルルにより1787年に発見されていたが未発表であった)。この法則は温度と体積の間の関係を示している。ゲイ=リュサックが温度と圧力に関連する法則(圧力則もしくはゲイ=リュサックの法則)を定式化する。 1804年 - ジョン・レスリー卿がつやの無い黒い表面はつやのある表面よりも効果的に熱を放射することを観察する。これは黒体放射の重要性を示唆している。 1805年 - ウイリアム・ウォラストンが著書On the Force of Percussionでエネルギー保存則を擁護する。 1808年 - ジョン・ドルトンが著書A New System of Chemistryでカロリック説を擁護し、これが物質、特に気体とどのように結合するかを記述する。また、気体の熱容量は原子量に反比例することを提案する。 1810年 - ジョン・レスリーが人工的に水を凍らせる。 1813年 - ピーター・ユワートが自身の論文On the measure of moving forceの中でエネルギー保存則の考えを支持する。この論文はドルトンと生徒であるジュールに強い影響を与える。 1819年 - ピエール・ルイ・デュロンとアレクシ・テレーズ・プティが水晶の比熱容量に対してデュロン=プティの法則を与える。 1820年 - ジョン・ヘラパスが気体の運動論におけるいくつかの考えを発展させる。しかし誤って温度を運動エネルギーではなく分子運動量と関連付けている。この業績はジュール以外にはほとんど注目されなかった。 1822年 - ジョゼフ・フーリエが、著書『熱の解析的理論 (Théorie Analytique de la Chaleur)』で、物理量の次元の利用を取り入れる。(次元解析) 1822年 - マルク・スガンがジョン・ハーシェルにエネルギー保存則と運動論を支持するという内容の手紙を書く。 1824年 - サディ・カルノーがカロリック説を用いて蒸気機関の効率を分析する。彼は可逆過程の概念を発展させ、自然界にこのようなことはないと仮定することで熱力学第二法則の基礎を築き、熱力学の科学を起こす。 1827年 - ロバート・ブラウン が花粉などが水中で動くブラウン運動 を発見した。 1831年 - マセドニオ・メローニが黒体放射が光と同じように反射、屈折、偏光できることを実証する。 1834年 - エミール・クラペイロンがカルノーの研究を図式的で分析的な定式化することで一般化する。ボイルの法則、シャルルの法則、ゲイ=リュサックの法則を組み合わせて混合気体の法則PV/T = kを作る。 1841年 - アマチュア科学者であるユリウス・ロベルト・フォン・マイヤーがエネルギー保存に関する論文を書くが、学術的訓練が欠けていたため拒絶される。 1842年 - マイヤーが船医であったときに行った血の観察に基づいて仕事、熱、ヒトの代謝の間の関係を作成することで熱の仕事当量を計算する。 1842年 - ウィリアム・ロバート・グローブが水蒸気が酸素と水素に解離し、この過程が逆にもなることを示すことにより、それらの構成原子への分子の熱解離を示す。 1843年 - ジョン・ジェイムズ・ウォーターストン(John James Waterston)が気体運動論を十分に説明するものの嘲笑され無視される。 1843年 - ジェームズ・ジュール 実験的に熱と力学的仕事の等価性を見出す。 1845年 - アンリ・ヴィクトル・ルニョーが混合気体の法則にアボガドロの法則を加え理想気体の法則PV = nRTを作る。 1846年 - カール・ヘルマン・クノーブラウホがDe calore radiante disquisitiones experimentis quibusdam novis illustrataeを著す 1846年 - グローブがOn The Correlation of Physical Forcesにおいてエネルギー保存の一般理論を説明する。 1847年 - ヘルマン・フォン・ヘルムホルツが熱力学第一法則であるエネルギー保存についての決定的な声明を行う。
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