1523年のカザン遠征とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1523年のカザン遠征の意味・解説 

1523年のカザン遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/16 14:31 UTC 版)

ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の記事における「1523年のカザン遠征」の解説

1523年にサーヒブ・ギレイは抑留していたヴァシーリー・ユーリエヴィチ・ポドジョギン大使並びにロシア人商人捕虜の処刑命じた同年春にサーヒブ・ギレイはクリミア・ハン国からの支援失った。メフメド・ギレイは同盟者であるノガイ貴族とともに成功見込みがあるアストラハン (ハッジ・タルカーン).への遠征着手したアストラハン・ハン国ハンであったフセイン王都追われ、同都市抵抗することなくクリミア軍に降伏した。メフメド・ギレイは自身長男カルガであった バハディル・ギレイをアストラハン・ハン国の新ハンとすることを布告しそのことノガイ貴族から不平不満を呼ぶこととなった。 メフメド・ギレイはクリミア軍の大半解散させ、自身僅かな従者とともにアストラハン野営地に陣取ったノガイ貴族のアギシュとママイ自軍率いて突然、メフメド・ギレイの本営襲撃し、メフメドは長男のバハティル共々戦死したその後ノガイ貴族大軍率いてクリミア荒らし回ったほどなくしてクリミア・ハン国では権力を巡る内乱起きた1523年の夏にモスクワ大公ヴァシーリー3世カザン・ハン国対す大規模な遠征組織した8月ニジニ・ノヴゴロドにて大がかりロシア軍連隊召集された。同都市にはヴァシーリー3世自身着任して軍勢分け最初は前のハンであったシャー・アリーの指揮する少数軍勢カザン向けた。 ヴァシーリー・ニキーチィ・タイシェフは自著ロシア史』にて: 「同年の春、サーヒブ・ギレイはカザンにて多くキリスト教徒残酷に扱って水の如く血が流れ大公大使であったヴァシーリー・ユーリエヴィチ・ポドジョギンは殺された。ヴァシーリー大公はこの行い嘆いて2番目の弟とともにカザン・ハンの迫害者のもとに向かい8月23日ニジニ・ノヴゴロド到達した軍司令官付けて船団でシャー・アリーをヴォルガ沿いにてカザンハンのもとに向かわせ、草原伝い騎兵大部隊を同じくカザンに向かわせて、カザンの地で捕虜狩りを行わせた。同じ頃、スーラ川の河口では木で造られた町が築かれヴァシーリーの町と名付けられた。彼等また、この河口小屋の町群も建て、これも同じくヴァシーリー大公因んでヴァシーリー名付け下方流域向かった。それから大公軍司令官達はカザンの地で捕虜狩り行い戦利品多く捕虜携えて帰還した」 と記す。 大船軍団率いたのは大貴族のヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・シュイスキー公と同じく貴族のミハイル・ユーリエヴィチ・ザハーリン=ユーリエフであり、セミョーン・フョーロドヴィチ・クルブスキー公 と御前待官のミハイル・アンドレヴィチ・プレシェーエフが先頭立った騎兵大軍団は大貴族のイヴァン・イヴァノヴィチ・ゴルバーティ公とイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ニェモイ・テレンツェフ・オボレンスキーが軍司令官となり、大貴族のフョードル・ユーリエヴィチ・シューカ・クトゥーゾフと宮廷待官のイヴァン・ヴァシリエヴィチ・リャツキィーが先頭の、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ストリギン=オボレンスキー公が右翼軍を、ピョートル・イヴァノヴィチ・リャプキン=オボレンスキー公が左翼軍を、ヴァシーリー・アンドレヴィチ・シレミェーテフとイヴァン・ミハイロヴィチ・シャーミン=ヤロスラフスク公が警備兵それぞれ指揮した。「勤務隊」 (砲兵) はグリゴーリ・ソバーキー、ヤクブ・イヴァシェンツオフ、ミハイル・ズベリ、ステパン・ソバーキー及びイサク・シェングルスキーが指揮を執った。 1523年9月ロシア軍国境スーラ川を渡ってカザン・ハン国領域侵入した。シャー・アリーのいた船団部隊ヴォルガ川両側のチェレミス人チュヴァシ人々を荒らし回ってカザン郊外達しその後ヴァシーリー3世命令遂行して直ち帰還した騎兵部隊はスビヤ川まで到達してイチャコフ平原にてカザン軍を壊滅させた。タタール人ロシア軍の攻撃耐えることが出来ず逃走して多くの者が川で溺死した1523年9月1日モスクワ司令部スーラ川のカザン右岸ロシア軍要塞建設し始めた伝えられるところによると、要塞はツェーペリのマリ人の地に建てられた。ロシア軍司令官現地民であるマリ人モルドヴィン人チュヴァシ人ヴァシーリー3世への忠誠を誓わせた。彼等多く人質及び捕虜という形でモスクワ領域送られた。新たなるロシア軍要塞支配者たる大公因んでヴァシーリーの町(ヴァシリスルスク)」と名付けられた。建設され要塞には強力な駐屯軍留め置かれた。 1523年10月17日にカザン・ハンであるサーヒブ・ギレイはガーリチ国境地帯にて新たなる多大な成果挙げたカザン・タタール人ガーリチ都市包囲した突撃不成功終わった後にカザン・タタール人とその配下マリ人は、多く捕虜を捕えて近郊荒らしながら撤退した。サーヒブ・ギレイはモスクワからの報復警戒して自身兄弟であるクリミア・ハンのサーデト・ギレイ (在位1524年1532年)のもとに急使遣わしてカザン大砲火縄銃、そしてイェニチェリカザン送ってくれるよう頼んだ。しかし、サーデト・ギレイは甥のイスラーム・ギレイとの権力争い忙殺されており、援助することを拒絶したそれならばとサーヒブ・ギレイはイスタンブール使節遣わしてオスマン帝国スルタン臣従誓った

※この「1523年のカザン遠征」の解説は、「ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の解説の一部です。
「1523年のカザン遠征」を含む「ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の記事については、「ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1523年のカザン遠征」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1523年のカザン遠征」の関連用語

1523年のカザン遠征のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1523年のカザン遠征のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのロシア・カザン戦争 (1521年-1524年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS