1523年のカザン遠征
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「ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の記事における「1523年のカザン遠征」の解説
1523年にサーヒブ・ギレイは抑留していたヴァシーリー・ユーリエヴィチ・ポドジョギン大使並びに全ロシア人商人の捕虜の処刑を命じた。 同年の春にサーヒブ・ギレイはクリミア・ハン国からの支援を失った。メフメド・ギレイは同盟者であるノガイの貴族とともに成功の見込みがあるアストラハン (ハッジ・タルカーン).への遠征に着手した。アストラハン・ハン国のハンであったフセインは王都を追われ、同都市は抵抗することなくクリミア軍に降伏した。メフメド・ギレイは自身の長男でカルガであった バハディル・ギレイをアストラハン・ハン国の新ハンとすることを布告し、そのことはノガイ貴族から不平不満を呼ぶこととなった。 メフメド・ギレイはクリミア軍の大半を解散させ、自身は僅かな従者とともにアストラハンの野営地に陣取った。ノガイ貴族のアギシュとママイは自軍を率いて突然、メフメド・ギレイの本営を襲撃し、メフメドは長男のバハティル共々戦死した。その後、ノガイ貴族は大軍を率いてクリミアを荒らし回った。ほどなくしてクリミア・ハン国では権力を巡る内乱が起きた。 1523年の夏にモスクワ大公ヴァシーリー3世はカザン・ハン国対する大規模な遠征を組織した。8月にニジニ・ノヴゴロドにて大がかりなロシア軍の連隊が召集された。同都市にはヴァシーリー3世自身が着任して軍勢を分け、最初は前のハンであったシャー・アリーの指揮する少数の軍勢がカザンに向けた。 ヴァシーリー・ニキーチィ・タイシェフは自著『ロシア史』にて: 「同年の春、サーヒブ・ギレイはカザンにて多くのキリスト教徒を残酷に扱って水の如く血が流れ、大公の大使であったヴァシーリー・ユーリエヴィチ・ポドジョギンは殺された。ヴァシーリー大公はこの行いを嘆いて2番目の弟とともにカザン・ハンの迫害者のもとに向かい、8月23日にニジニ・ノヴゴロドに到達した。軍司令官を付けて船団でシャー・アリーをヴォルガ沿いにてカザンのハンのもとに向かわせ、草原伝いで騎兵の大部隊を同じくカザンに向かわせて、カザンの地で捕虜狩りを行わせた。同じ頃、スーラ川の河口では木で造られた町が築かれてヴァシーリーの町と名付けられた。彼等はまた、この河口で小屋の町群も建て、これも同じくヴァシーリー大公に因んでヴァシーリーと名付け、下方流域に向かった。それから大公の軍司令官達はカザンの地で捕虜狩りを行い、戦利品や多くの捕虜を携えて帰還した」 と記す。 大船団軍団を率いたのは大貴族のヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・シュイスキー公と同じく大貴族のミハイル・ユーリエヴィチ・ザハーリン=ユーリエフであり、セミョーン・フョーロドヴィチ・クルブスキー公 と御前待官のミハイル・アンドレヴィチ・プレシェーエフが先頭に立った。 騎兵の大軍団は大貴族のイヴァン・イヴァノヴィチ・ゴルバーティ公とイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ニェモイ・テレンツェフ・オボレンスキーが軍司令官となり、大貴族のフョードル・ユーリエヴィチ・シューカ・クトゥーゾフと宮廷待官のイヴァン・ヴァシリエヴィチ・リャツキィーが先頭の、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ストリギン=オボレンスキー公が右翼軍を、ピョートル・イヴァノヴィチ・リャプキン=オボレンスキー公が左翼軍を、ヴァシーリー・アンドレヴィチ・シレミェーテフとイヴァン・ミハイロヴィチ・シャーミン=ヤロスラフスク公が警備兵をそれぞれ指揮した。「勤務隊」 (砲兵) はグリゴーリ・ソバーキー、ヤクブ・イヴァシェンツオフ、ミハイル・ズベリ、ステパン・ソバーキー及びイサク・シェングルスキーが指揮を執った。 1523年9月にロシア軍は国境のスーラ川を渡ってカザン・ハン国の領域に侵入した。シャー・アリーのいた船団部隊はヴォルガ川の両側のチェレミス人とチュヴァシ人の村々を荒らし回ってカザン郊外に達し、その後、ヴァシーリー3世の命令を遂行して直ちに帰還した。騎兵部隊はスビヤ川まで到達してイチャコフ平原にてカザン軍を壊滅させた。タタール人はロシア軍の攻撃に耐えることが出来ずに逃走して多くの者が川で溺死した。 1523年9月1日にモスクワ・司令部はスーラ川のカザンの右岸にロシア軍の要塞を建設し始めた。伝えられるところによると、要塞はツェーペリのマリ人の地に建てられた。ロシア軍司令官は現地民であるマリ人、モルドヴィン人 、チュヴァシ人にヴァシーリー3世への忠誠を誓わせた。彼等の多くは人質及び捕虜という形でモスクワの領域に送られた。新たなるロシア軍の要塞は支配者たる大公に因んで「ヴァシーリーの町(ヴァシリスルスク)」と名付けられた。建設された要塞には強力な駐屯軍が留め置かれた。 1523年10月17日にカザン・ハンであるサーヒブ・ギレイはガーリチの国境地帯にて新たなる多大な成果を挙げた。カザン・タタール人はガーリチの都市を包囲した。突撃が不成功に終わった後にカザン・タタール人とその配下のマリ人は、多くの捕虜を捕えて近郊の村を荒らしながら撤退した。サーヒブ・ギレイはモスクワからの報復を警戒して自身の兄弟であるクリミア・ハンのサーデト・ギレイ (在位1524年—1532年)のもとに急使を遣わして、カザンに大砲、火縄銃、そしてイェニチェリ をカザンに送ってくれるよう頼んだ。しかし、サーデト・ギレイは甥のイスラーム・ギレイとの権力争いで忙殺されており、援助することを拒絶した。それならばとサーヒブ・ギレイはイスタンブールに使節を遣わしてオスマン帝国のスルタンに臣従を誓った。
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