1524年の遠征とは? わかりやすく解説

1524年の遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/16 14:31 UTC 版)

ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の記事における「1524年の遠征」の解説

1524年の春の晩期モスクワ大公ヴァシーリー3世カザン・ハン国への大規模な遠征敢行した。形式上は前のハンであったシャー・アリー(シガレイ)がロシア軍率いることになった。ただし、イヴァン・フョードロヴィチ・ベリスキー公、ミハイル・ヴァシリエヴィチ・ゴルバーティン=シュイスキー並びにミハイル・ユーリエヴィチ・ザハーリンが実戦指揮執り彼等大船団を率いて全軍指揮を執った。セミョーン・フョードロヴィチ・クルブスキー公と宮廷待官のイヴァン・ヴァシリエヴィチ・リャツキィーが先軍の、セミョーン・ドミトリエヴィチ・セレビャーニイ=オボレンスキー公とピョートル・フョードロヴィチ・アフリャービニイが右翼軍の、ユーリー・ヴァシリエヴィチ・ウシャーティー公とイヴァン・ミハイロヴィチ・シャーミンが左翼軍の、ミハイル・イヴァノヴィチ・クベンスキー公 とヴァシーリー・ヴァシリエヴィチウシャーティー公が警備兵指揮を執った。 軍司令官イヴァン・ヴァシリエヴィチ・ハーバル・シムスキーとミハイル・セミョーのヴィチ・ヴォロンツォフの統率のもと、騎兵部隊船団部隊から独立して行動をとった。ヴァシーリー・アンドレヴィチ・シェレミェーテフとフョードル・セミョーノヴィチ・クリーチェフが先軍の、ピョートル・イヴァノヴィチ・レープニン公とドミトリー・グリゴリエヴィチ・コーパス・ブトゥーリンが右翼軍の、イヴァン・フョードロヴィチ・アヴチーナ=テレプネフ=オボレンスキー公とアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・メニショイ・クロポトキンが左翼軍の、イヴァン・ヴァシリエヴィチ・ロシャコフ=カリチョーフとイヴァン・ミハイロヴィチ・チュロク=ザセーキン公が警備兵指揮を執った。「大貴族息子」の肩書有しカザン刑死したヴァシーリー・ユーリエヴィチ・ポドジョギン大使兄弟である大公代理人のイヴァン・ユーリエヴィチ・シゴーナ=ポドジョギンと書記のアファナーシー・クリーツィンが特別に遠征軍とともにカザン遠征参加することとなっていた。 1524年5月8日船団部隊カザン向けて出港し5月15日には騎兵部隊出陣したカザン軍のユルタ襲撃思い描くには国際情勢味方した。この時期ポーランド=リトアニア連合大軍クリミア・ハン国侵入してアチャーキフの要塞破壊した2つロシア軍部隊侵入の報を受け取ったサーヒブ・ギレイはカザン捨ててクリミア逃亡し、そこからオスマン帝国スルタンから援軍を得るために密かにイスタンブールに行く計画立てた。サーヒブ・ギレイは自身代わりに13歳の甥である サーファ・ギレイをカザン留め、ブーラト・シーリン 指導のもとでカザン貴族は彼をハン祭り上げた。サーデト・ギレイは敵前逃亡した兄のサーヒブ・ギレイの逮捕命じた1524年8月24日にイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ハーバル・シムスキーとミハイル・セミョーのヴィチ・ヴォロンツォフの指揮するロシア軍騎兵部隊はイチャコフ平原戦いにてカザン軍を壊滅させた。戦闘ではロシア軍戦士は「多く諸侯タタール人チェレミス人チュヴァシ人打ちのめしその他の諸侯貴族並びに生き残った多くの者を捕えた」。 1524年7月3日軍司令官イヴァン・フョードロヴィチ・ベリスキー、ミハイル・ヴァシリエヴィチ・ガルバーティン=シュイスキーとミハイル・ユーリエヴィチ・ザハーリン=ユーリエフ率い船団部隊カザン前の岸辺上陸した軍勢は、包囲開始するために「ツァーリ平原にて小屋を建て始め」て騎兵部隊が来るのを待った7月19日ロシア軍2つ部隊合流することを恐れたカザン・タタール人要塞都市強化しているロシア軍襲撃したロシア軍カザン軍を撃退はしたものの、同軍の新たなる自営陣への襲撃阻止することは続けられなかったカ。程なくしてイヴァン・フョーロドヴィチ・ベリスキー公の部隊兵糧尽きた。同軍への援軍として90艘の河船から成るイヴァン・フョードロヴィチ・パレツキー公指揮下の第2船団部隊ニジニ・ノヴゴロド出陣したロシア軍船団の到着知ったチェレミス人待ち伏せをして構えたチェレミス人最初に岸沿いに船団随伴していた500人のロシア軍騎兵部隊打ち取ってその後夜になってイヴァン・フョードロヴィチ・パレツキー公の河船部隊を襲撃した多くロシア軍戦士打ち取られたり捕虜になったりした。僅かな船のみがカザン付近のシャー・アリー及び総司令官であるイヴァン・フョードロヴィチ・ベリスキー公の陣営辿り着くことが出来た程なくして同地にイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ハーバル・シムスキーとミハイル・セミョーのヴィチ・ヴォロンツォフの指揮する騎兵部隊到着した8月15日ロシア軍部隊一つになってカザン包囲開始した。けれどもロシア軍軍司令官目立った戦果上げることは出来なかった。カザン郊外に陣取っていたカザン軍部隊はロシア軍陣地間断のない急襲敢行した。ロシア軍新たなるタタール人襲撃撃退するために常に準備整えていた。程なくして自らの行為無益であることを理解したロシア軍軍司令官タタール人和平交渉開始し和平締結のためにカザン使節モスクワに送ることと引き換えにしてカザン包囲を解くことに合意したロシア軍カザン包囲解除して急いで帰国した1524年11月にアプパイ・ウラーナとバフティー・キヤータ公率いカザン使節モスクワ到着した双方交渉の後、カザン毎年7月24日開かれていた定期市ロシア領域移管することを唯一の条件として和平締結された。 ヴァシーリー・ニキーチィ・タイシェフは自著ロシア史』にて: 「アプパイ・ウラーナとバフティー・キヤータ公の使節カザンから、その他の者、大公一員戦った者がカザン全土から己が責任とサーヒブ・ギレイのハン位のために同年秋にやって来た。そして大公は彼らの訴えに応じて褒賞与え、 ヴァシーリー・ダニイロヴィチ・ペニコフ公大使とアファナーシー・クリーツィン書記カザン送った。」 と記す。

※この「1524年の遠征」の解説は、「ロシア・カザン戦争 (1521年-1524年)」の解説の一部です。
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