1367年の海図とは? わかりやすく解説

1367年の海図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 10:20 UTC 版)

ピッツィガーノ兄弟」の記事における「1367年の海図」の解説

ピッツィガーノ兄弟は、おもに1367年製作した羅針儀海図の製作で知られており、現在その実物はパルマのビブリオテーカ・パラティーナ(英語版)が所蔵している (Ms.Parm.1612)。横 138cm、縦 92cm という図面は、当時としては最大地図であった。 この地図作者については、若干論争がある。地図の縁に記され注記は、「MCCCLXVII. Hoc opus compoxuid franciscus pizigano veneciar et domnus pizigano In Venexia meffecit marcus die XII decembris.」通常の解釈では、これがドメニコ・ピッツィガーノフランチェスコ・ピッツィガーノ兄弟への言及であるとしている。これとは異なる解釈中にはフランチェスコドメニコ兄弟ではなく息子だったのではないか、そしてドメニコ地図完成時点で既に死去してたとするものや、domnus は(ドメニコのことではなく聖職者称号で、第二著者の名はマルコ (Marco, marcus) だとするもの、著者の名を記した部分をよく見ると rardus と記されているようでもあり、(ジェ)ラルダス ((Ge)rardus)、ジェラルド (Gerardo) である可能性があるとするもの、兄弟フランチェスコドメニコマルコ(ないしジェラルド)の3人だったとするものなどがある。20世紀になってツアン・ピッツィガーノ1424年地図発見されるまで、この兄弟の姓は「Pizigani」(複数形:z はひとつ)と綴られていたが、以降は z ふたつに改められるようになっているピッツィガーノ兄弟1367年羅針儀海図は、もっぱら地中海黒海範囲とどまっていた同時代地図範囲の先まで記載していたところに大きな特徴があり、大西洋広範囲描かれ北方では、スカンジナビア半島バルト海カスピ海なども描かれていた。 1367年ピッツィガーノ兄弟海図は、カナリア諸島について詳しい描写をしており、8つの島を描き1339年のアンジェリーノ・ドゥルチェルト(英語版)の海図以降蓄積され知識反映させている。また、空想上幻島であるブラジル島(英語版)も、大洋只中に、船やアラブ伝説上のドラゴンとともに描かれている。実在するカナリア諸島北方に、ピッツィガーノ兄弟空想上フォルトゥーナ諸島英語版)の島々描き修道像姿の聖ブレンダン祝福するセント・ブレンダン島(英語版)も描かれている。ピッツィガーノ兄弟地図は、謎めいたマム島(英語版)をアイルランド南西描いた最初地図でもあった。 かつて一部歴史家たちは、15世紀羅針儀海図によって有名になった伝説上の島であるアンティリア島を最初に記載したのは1367年ピッツィガーノ兄弟海図だと考えていた。地図西端には島は記されておらず、何の言及もないが、手を広げた男性書き添えられ円盤描かれており、その添え書きには、ある解読によると「ここには、アトゥリアの前に (ante ripas Atulliae) 立像並んでおり、船乗りたちの安全を祈っている。その先には航海叶わない忌まわしい海が広がっている」とある。一部学者は、特に19世紀には、ここで言われているアトゥリアが、アンティリア島へ最初言及例だと信じていたが (e.g. Buache, Kretschmer, Nordenskiöld)、このような解釈は、その後疑わしいものとされた。Crone (1938) は、この部分ante ripas Getuliae (Getulia) と読んだHennig (1945) 以降は、この記述は「at temps Arcules」ないし「ante templum Arcules」(「ヘラクレス時代から」の意)と解されており、ほぼ疑いなくヘラクレスの柱、すなわち古代航海者にとっての non plus ultraこの先行けない)場所へ言及だとされており、マスウーディーなどアラビア語文献見える「巨人王ヘラクレス」の「偶像」が暗黒の緑の海の縁を示すという話や、イドリースィーが、海峡から離れた島々目印の「偶像」を配したことが踏まえられている。 1367年地図は、ヨーロッパ人描写したものとしては初めて、伝説の「黄金の川」を西アフリカにはっきり描き込んだ最初期地図のひとつである。この川は、特にバクリーやイドリースィーによって、「西ナイル川」としてアラビア語文献言及されている。この西ナイルとされている川は、実際にセネガル川ないしニジェール川であり、両者繋がっており、黄金産出するマリ帝国中心部流れているものと、長い間わたって考えられていた。ピッツィガーノ兄弟は、この川を「パロルス (Palolus) 川」と呼び、その源を東方の「月の山脈」の山中大きな湖とし、そこからエジプトナイル川も源を発しているとした。ピッツィガーノ兄弟は、この川が西へ流れ、Caput finis Gozola(ナン岬(英語版))の南のどこかで大西洋に注ぐように表現したピッツィガーノ兄弟は、金鉱の場所を、彼らが「パローラ (Palola) 島」と呼んだ中州としたが、おそらくこれはビュレ (Buré) 金鉱のことで、ニジェール川上流部支流囲まれ地区が、中州誤認されたのであろうピッツィガーノ兄弟地図は、プレスター・ジョン伝説についても言及しており、黄金大量に産出するので、家の屋根黄金葺いたり、兵士武器黄金鋳造するなどと記している。

※この「1367年の海図」の解説は、「ピッツィガーノ兄弟」の解説の一部です。
「1367年の海図」を含む「ピッツィガーノ兄弟」の記事については、「ピッツィガーノ兄弟」の概要を参照ください。

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