103系投入
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1968年(昭和43年)4月7日にはライバルの神戸高速鉄道が開通した。対抗策として快速の113系統一が1967年に完了しており、1968年10月1日の「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正で従来の快速20分、普通10分間隔基準のダイヤから、現在と同様の15分間隔のダイヤとなった。 この段階で、快速と各駅停車の間に性能、サービスの両面から大きな差が開いたことから、各駅停車への新車投入が急がれることとなった。関西支社・大鉄局双方とも本社に対して以前から各駅停車への新車の早期投入を要請していたが、爆発的な通勤需要の伸びを見せる東京圏を優先した結果、京阪神緩行線は待たされ続け、新形式の導入を待っていたら1970年の大阪万博開催に間に合わない状況になり、それ以前に新車を投入したいという大鉄局の思いが103系の導入につながった。実際、103系もこのころには常磐線(現在の常磐快速線)や阪和線快速といった駅間距離も長く高速性能を要求される線区にも投入されていたことから、京阪神緩行線に導入しても充分対応できると判断されたのである。 こうして、1969年8月8日から明石電車区に103系の新製投入が始まり、翌年2月までに15編成105両が勢揃いして万博輸送に当たることとなった。新形電車なので、旧形電車の最高速度90km/hを上回る最高速度95km/hにて運転することができ、電気ブレーキの使用と相まって駅間運転時分の短縮が図れた。 万博終了後の1970年10月1日ダイヤ改正で新快速が登場したが、既存のダイヤの間に新快速を増発したため、芦屋駅・新大阪駅・高槻駅で各駅停車が新快速・快速を連続待避するダイヤとなった。なお、103系投入によって51系が飯田線・身延線・赤穂線などに転属したほか、72系が首都圏の周辺線区や阪和線などに転属し、そして1971年の初頭には最後まで残ったモハ70が3両、仙石線に転属して、51系より先に70系が京阪神緩行線から姿を消した。 1972年2 - 3月にかけて、ヘッドライトのシールドビーム2灯化と側窓のユニットサッシ化が図られた1次改良車を15編成+予備4連×1本(計109両)を新製し、明石に投入した。この一次改良車は京阪神緩行線のほかは常磐快速線(松戸)に投入された。 この1次改良車の投入によって昼間時の103系化が達成されたことから、山陽新幹線の新大阪駅 - 岡山駅間開業による1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正(「ヨン・ナナ・サン」)で新快速が1時間に4本に増発されたのと同時に、京阪神緩行線のダイヤは大きく変更された。 朝時間帯は神戸市内利用客の便宜を図るために3分間隔に増発された。特急以上の速度で15分間隔で走る新快速から逃げ切るには線区最高速度90km/hの旧型車両では不可能で、日中の103系への統一がなされたことでようやく実現したのであるが、それでも新快速運転中の京都駅 - 西明石駅間の直通運転はできなくなった。そこで、日中の運転を京都駅 - 甲子園口駅間と吹田駅 - 西明石駅間の2系統に分割したほか、高槻駅・芦屋駅では新快速の通過待ちと快速の接続待ち、須磨駅では新快速の通過待ちをそれぞれ行うダイヤとした。このダイヤ体制はその後、1985年(昭和60年)3月13日まで13年続いた。 ただし、実用限界の95km/h以上の最高速度を要求された103系は、電気ブレーキ時の衝動などのトラブルが相次ぐことになるが、それらも問題点が順次明らかにされて解決されていった。しかし各駅停車の区間を2系統に分割したとはいえ、内側線は外側線と同じ閉塞構成であり、貨物列車のブレーキ力を想定した信号配置であったことから、すぐに後続の列車に制限信号を与える結果となった。15分サイクルに新快速・快速・各駅停車2本が走るということは平均3分45秒間隔で電車が走ることになるが、その運転間隔をスムーズに運転するだけの閉塞構成でなかった点もあり、新快速の大阪駅 - 三ノ宮駅間では改正前の23分20秒から10秒増え、23分30秒運転となっていた。
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